屏風浦物語

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横尾時蔭(よこおときかげ)

(文責;高橋厚温 引用:まんだら教報 第28号

昭和43年6月15日発行)

海岸寺より熊手八幡宮に行く県道の北側の田の中に、一本の松がある。その下に六尺ほどの古い石塔。これは、時公塚とよび、稀代の雅楽の達人、横尾時蔭をほうむっているものである。

時蔭は、摂津国天王寺に住んでいた人で、父は大和介といって、代々、雅楽をもって官についていたのですが、わけがあって嘉元(鎌倉末期一三〇三-一三〇六)の頃、父と共に讃岐に流寓し、民間に交わって、身は賤しい樵夫(きこり)となり、隠棲していた。

建武元年(一三三四)五月、病気のためこのかたいなかで死亡。遺言によって、生前、仲秋の月下に、はからずも奇遇の友を得て、再会を約束していた白方浦に葬ったのが、この塚であり、その悲哀の物語は、そぞろに袖をしぼらせる。

元弘三年(一三三三)、豊原太夫将監(しょうげん)兼秋は、後醍醐天皇の詔りを奉じて、伊予国河野備後守通治のもとに下った。その帰路、兼秋は脚気のため、船を利用していたが、ここ讃岐国屏風浦の沖を通りかかったとき、頃はちょうど八月十五日の夜のこととて、松林にかかる月を見ようと、船を岸に泊めたが、忽ち風が起き、雨が降りだしたが、しばらくで止み、一輪の明月が輝き出、雨後の月光、常に倍し、山川の景色は、いいようもないほでであった。

そこで兼秋は、琴をとりだし、先ず、香を焚き、秘曲を弾きはじめた。曲の中途で音調が突然に変わり、琴のつるが一本プツリときれた。兼秋は、ひじょうに驚き、

「秘曲を盗み聞く者があるときには、琴の音色が変わるというが、こんな四国のかたほとり、ことに、このような海岸で、琴を聞く者はあるまい。もしかすると、自分を探ろうとする間牒か、あるいは、財宝をねらう盗賊であろう。海の上にはあやしいものはいない。誰か山岸を探ってきなさい」

というので、従者が追っ取り刀で岸に上ろうとすると、声があって、

「船中の人、騒ぎ給うな。わたしは、盗賊や刺客ではありません」

とミノ笠姿の樵夫が現われ、

「私は、柴を打っているうちに日が暮れ、雨に逢って岩のかげにひそんでいましたが、珍しい風雅な情操に足をとめ、聞きほれていましたが、どうして早く終わったのですか」

と言ったので、兼秋は大笑いをし、

「柴をうつ人に、私の琴を聞き得る人があろうか。思うのに、盗賊の張本人であろう。早くここを立ち去りなさい」

と言えば、樵夫は、

「大人の言葉とも思われません。十軒ばかりの小さな村落にも、忠臣がないわけではございません。いい人がいますと、いい人が来るということもございます。今の音曲は、隋唐よりも古く、本漢時代以上の音曲で、南宮譜の後詠転、四帖の曲でございましょう。そして、その曲詞は、“秋月芦紅白、初驚(或は神響)冷露時寒衣尚未了”の句、そして次に即喚儀底為とつづくところで緒(いと)が絶(き)れたのです。ああ、美しいことでした。あの琴の音色。ひいていた方の心は、峨々たる高山にありました」

兼秋は、それには答えないで、

「およそ此の秘曲は我が家の外に伝えている者はない。どうして、これを知っていなさるか」

と。いぶかしみつつ、また精神をこらして、再び琴を弾きはじめますと、

「美しいことです。洋々たるひびき。お心は、海の水にあるようです」

兼秋は、こんども言い当てられたので、直ちに琴をかき退け、樵夫を上座におしやって礼をし、

「思いもかけなかったことです。砂の中の金です。人は、みかけで、おしはかるものではございません。お名前を聞かせてください」

「はい。私は横尾時蔭と申すもの。親は、大和介と申して、世々、天王寺でいましたが、三十年前、この国に下り、いやしい仕事をしておりますが、音楽の道はゆかりふかく、やはり捨てがたいものでございます」

と言うと兼秋は、

「あなたのような方があってこそ、私の琴の甲斐もあるというものです。これからは、兄弟となって、あなたの秘奥を聞かせていただき、また私の伝え知っている故実も話させていただき音楽家の再興を計りましょう」

と悦び、互いに心を傾けあって語りあったことでした。

時に時蔭は二十八才、兼秋は一才の上でしたので、兼秋を兄と敬い、深い契りを結んだ。そして時蔭の住所を尋ねたところ、

「ここから一里ばかりの山階というところです。お兄さんがもし公事でなければ今からお越しいただいて、両親にも、逢っていただきたいものです」

と言えば、

「ああ、親思いの方ですね。私は、きっと、もう一度、やってきて、お尋ねいたしましょう」

と、明年の仲秋、天明の頃に定めて、涙を流して約束し、兼秋が一封の金を差し出せば、時蔭は遠慮なく受けとり、海と陸とに別れたのでした。

こうして冬を越し、春が去り夏となり仲秋の季節となったので、兼秋は、しばらく公事の暇をもらって、四国路への便船に乗り、建武元年八月十五日、再び屏風浦に着いた。

「去年、知友に逢ったとき、雨後の明月を見たことであるが、今、重ねて此の月を望むことができた。しかし、時蔭の姿もみえないが、約束を忘れたのだろうか。我が弟は、どうしたのだろうか」

と心配し、

「去年は琴を弾いて彼と知り合うことができた。今宵も琴を以て自分の来ていることを知らそう」

と弦(つる)を調べてかきあわすのに、商(五音の中の第二音)の弦に何となく悲しいひびきがこもる――兼秋は琴をとめ、

「商の弦に哀声があるのは、我が弟に必ず憂愁に逢ったのであろう。年老いた親があると聞いているが、お父さんでなければ、お母さんに別れたのだろうか。親思いの彼のことゆえ、喪に服しているために約束を果たすことができなかったのであろう。夜が明ければ尋ねて行こう」

と琴を納めて寝たけれども、目がさえて眠られず、夜明けに上陸して、従者を引き連れて一里ばかり行って里に入り、人でも来れば尋ねようと路傍で休んでいたが、鬚髪の白くなっている老翁が藤の杖を突き、布包をもって来かかったのに逢ったので、その村を問うと、老翁のいうのには、

「東も西も山階へ行く道だが、左は山階上(かみ)、右は山階下(しも)です。上か下か、どちらでしょうか」

と問うので、兼秋は、とまどっていると翁がまた言うのには、

「此の村は二百軒ほどの部落ですが、私はもうここで長年住んでいますので村中、知らない人もいないでしょう。お尋ねになる方のお名前は」

兼秋は、

「横尾時蔭と申しますが、世にかくれて住まわれている人ですから、村では何と呼んでいるでしょうか」

と言うと、翁は、両眼よりハラハラと涙を流し、声をあげて泣き、

「時蔭は、私の子供です。去年八月十五日、都のお方の珍しい琴の曲を聞きましてより、互いに兄弟の約束をいたしまして、再び家職を興そうと心をはげまし、柴を打つひまにも、音律のことに工夫をこらしていましたが、はからずも病気になりまして、数か月前に身まかったのでございます」

兼秋は、これを聞いて泣き叫んで地に伏せるので、翁も不思議に思い、

「かねてお聞きしています豊原兼秋さまではございませんか」

と従者に問いながら、共に兼秋を介抱するのでした。

兼秋は、ようやく人心地になりましたが、絶えず吐息をつきながら、

「哀れにも弟は、泉下の人になったのか」

と、あったことなど泣く泣く語り、

「私は時蔭と兄弟ですから、私のいますかぎり、時蔭どのがいられると思ってください。そして、どこへ葬られたのですか」

と問えば、翁は、

「私の子供は、臨終のとき、屏風浦に葬られよ。私は兼秋どのと約束しております。その言葉を違えたくありませんとの遺言によりまして、あなたのお越しになられた小道の傍に、もり土の新しいのが時蔭の墓でございます。今日は、ちょうど百ヶ日の宵でございます。どうか、墓に詣ってやってくださいませ」

と、翁と共に、もと来た道を帰り、その塚に行きつき兼秋は衣冠を着て墳前に拝し、その哀しい思いを告げて泣き沈んでおりましたが、やっとのことで、従者に持たせていました琴をひきとり、

「此の秋を、昔になして人もかな、はりしれぬ雲かくれ、新しきつかのかげ音もなし、たよりもしらぬ此の山中、われふりすてて一声ばかり、それかとぞきく呼子鳥」

と、涙と共に断じ終わり、剣を抜いて琴を二つに打ち割ってしまった。翁はおどろいて、

「どうして、そんなことをなさいますか」

と言えば、

「今は聞き知る人もない。琴がありましても、どうしましょう。この道のすたれる時が参りました」

と言えば、翁は非常に感動し、

「私の村は、山階の上です。御案内いたしましょう」

と言いますと、

「私。考えがございますので、一度、都に帰り、万事、整理をいたしましたならば、あらためて参りまして、時蔭どのに代わって、御両親さまの終わりを見届けいたしましょう。と申しますのは、主上、後醍醐天皇さまは、御位にかえられましてよりは、かりそめのお遊びに、琴や琵琶、筝(しょう)ひちりきなどを弾かせらるのにも、艶やかな曲ばかり造らせられようとお望みになられ、事件の多い世を治めたまわれる君主とも思われませぬ。これは昔から言い伝えていますが、“桑間沢上(いずれも男女がこっそり逢うところ。いんわいの意)ろの音が流行して国が亡びた”というのも此の心と思います。都が一変するのも遠くないでしょう。私も二君に仕えるよりは早く身をひそめ、天寿を楽しむ考えでございます」

と、翁にお別れして、そのまま都に帰りましたが、かれこれしていますうちに兵乱がおこりましたので、こうなるであろうと四国に下り、山階村に至り、老夫婦に仕え、時蔭に代って、その終わりを送り、兼秋も子供も農人とし、その身は出家して世を見限り、それでも幸い、四国は南朝に心を合わせる国でありましたところから、道の通行も自由で、折節、吉野の皇宮へも参上したということです。

この物語は、西讃府志に屏風浦記というものに載せられてあったと紹介されている。

ある言い伝えでは、横尾時蔭は横笛の名人で、体が弱いために京から弘法大師誕生地といわれる屏風浦に保養に来ていたもので、ビワ坂(兵田)に住んでいたが、伊予に行く友人が、彼がここにいることを聞き、故郷へ帰ることをすすめに寄ったのだが、きかずについに腸ガンで此の地でなくなったともいわれている。(以上、文責;高橋厚温)

文中、山階という地名が出てきます。これは「やましな」と読み、現在は多度津町の一地域です。善通寺市に隣接する場所です。西讃府志には、「鵜足郡山中村」とあり、山階とは書かれてありません。編纂者は、鵜足郡(現在の綾歌郡)に山中村はないことから、仲多度郡の山階村のことではないかと注記しています。実際、熊手八幡宮の近くに時蔭の墓と伝える時公塚(とっこづか)があり、ここから山階までは一里ほどありますのでちょうど符合するわけです。

香川の地理を簡単に説明しますと、海岸寺がある仲多度郡多度津町の東が丸亀市、綾歌郡宇多津町、坂出市と続きます。宇多津あたりが屏風浦と呼ばれたことは歴史的にはありません。

現在の時公塚からは、家並みにさえぎられ、幾分埋め立てもされていますので、海岸線は見えません。ホンダの車屋の間にある細い路地を通ってたどり着くことができます。

南北朝時代の人の墓があるということは、この辺りが当時は陸地だったことを意味します。また、時公塚のその場所は弥生時代の古墳でもあり、時公塚古墳と呼ばれています。弘法大師が生まれた千二百年前、善通寺あたりまで海であったとする説がありますが、考古学的にはあり得ないことです。ちなみに山階には、田んぼの真ん中にお椀を伏せたようなどデカイ盛土山古墳があります。日本最大級6・7センチの勾玉が発掘されたことで知られています。この勾玉は現在、東京国立博物館に所蔵されています。この古墳の土地所有者の一人は、海岸寺本坊の納経所の男性であり、詳細を聞くことができました。

屏風浦海岸寺HP

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