弘法大師の産土神「熊手八幡宮」

弘法大師の産土神「熊手八幡宮」

熊手八幡宮のこと

 海岸寺から東へ700mほどの処に、弘法大師の産土神社として知られる熊手八幡宮があります。

 その昔、大師の母、玉依御前のお屋敷がこの近くにあって、大師を身ごもられた時、安産を祈願してご参拝になったとされています。

 産土(うぶすな)神とは、私たちが生まれた土地を司っている鎮守の神のことで、大師がここ白方の地にお生まれになったことから、熊手八幡宮を産土神社と崇められました。

 江戸時代に紀州藩の儒者仁井田好古によって編された「紀伊続風土記」には、「人皇四十九代光仁天皇宝亀五年六月十五日弘法大師讃州屏風浦に御誕生あり。日本の風俗に随ひ白方村の八幡宮を氏神と崇め給ひ、延暦廿三年入唐の砌深く大菩薩に祈誓ましまし云々」とあります。(正確には、氏神とは先祖の祖神のことで、産土神とは異なる)

 さらに弘仁十年(819)、大師は社殿を造営し、ご神体八体と釈迦尊像一体を刻み安鎮、嵯峨天皇の勅額を賜って鳥居にかかげました。ここに供僧坊舎四十八宇、宮仕えの巫女数十人が置かれ、神仏習合の社寺として永く祭られることになったのです。

熊手八幡宮の縁起

 この熊手八幡宮は、大師ご誕生よりさかのぼること四百年、神功皇后が三韓征伐の帰途、風浪の難を避けて上陸されたという伝承に因む古社です。皇后は長鉤(熊手)と旗竿を土地の者に与えて、従者の渡辺一族の遠祖にこの地に留まって祭祀するよう申し付けました。

 欽明天皇の頃、応神天皇(誉田別尊)を主祭神とする八幡宮が全国的に祭られるようになりますと、ここ白方でも神功皇后(応神天皇の母)ゆかりの地であることから熊手八幡宮、もしくは白方八幡宮として祭られることになりました。

大師と八幡神

 弘法大師は生前、八幡大菩薩とご対面され、お互いの姿を写し合ったとする伝承があります。八幡神は、「わたしとあなたはもと同一体であり、上人の居る所へは必ず影と形のごとく追い随うつもりである」と申されました。

 かくて、大師が高野山の奥の院にてご入定になられますと、白方の八幡神は生前の約束を果たそうと、ご神体である熊手と旗竿を白龍と化し、高野山へ向けて飛ばしました。海上を越え、紀ノ川をさかのぼり、高野山の管内である伊都郡兄井村の松樹に掛かったご神体は、遠く葛城の峰まで光を放っていたそうです。

 同郡大畑村の鬼五郎、次郎たちがその光を慕い訪れ、また諏訪次郎右エ門へも相談して、このことを高野山に報告しました。同山ではこのご神体を奉迎し、丁重にお祀りすることにしました。

巡寺八幡宮のこと

 ご神器を迎えた高野山では、行人方の各院が持ち回りで祭祀を行うことになりました。これを巡寺八幡宮と呼びます。

 時代はずっと下りますが、萬治二(1659)年の記録では約六十ヶ院が参加しており、担当の院では半年ほどの間、「梵焼供養一千座、尊法供養一千座、三時長日之修法不断之明燈」というほど丁重な扱いでした。

 現在では、有志八幡講として十八ヶ院が二ヶ月毎に巡寺しています。各院の名称は明らかですが、何しろ非公開の祭事ですので、詳細は一般には知られていません。

 このようにお大師様のご誕生地とご入定地とが、産土神である熊手八幡宮を通じてつながりあい、一千有余年もの間祭祀が続けられてきたということには誠に感慨深いものがあります。

ご神体の遷座

 明治二年(1869)の神仏分離令の際、同山から兄井村の諏訪神社へ仮殿を建てて遷座されることになりました。

 その後、近隣の小社が合祀されることになり、熊手八幡は三谷の丹生酒殿神社へ移されます。

 しかし、ご神体の熊手があまりに長いため、社殿内に入れることができず、初めは軒に掛けられていました。掃除などの時、村人の体が熊手に触れると、電気が走ったようにしびれたり、火花が散ったりしたため、これはきちんと納めないといけないという話になりました。

 熊手は鉄製でしたが、柄の部分は木でできていましたので、短く切って納めようという話になり、大工に頼みました。しかし大工は畏れて切ることを嫌がったので、宮司さんに頼んで祝詞をあげ切ってもらいました。そうして納めたところが、台風で大木が倒れ社殿と熊手を納めた木箱が壊れてしまいました。

 その後、有志八幡講のご寄進もあり、新たに建て直すこととなりました。現在三つある社のうち左手の少し横長い社がそれで、社前に紀伊続風土記の碑が建てられています。

異なる地元の伝承

 同地では、紀伊続風土記の記述とはまた異なった伝承を持っています。凱旋された神功皇后が紀ノ川をさかのぼって兄井まで来られ、ここで熊手を川に沈めて奉納したというものです。

 のちに、大畑村の庄屋さんが朝日の昇るたび川が光って見えることに気付きました。村人には見えなかったのですが、あまりに庄屋さんが気にされるので、一度川ざらいしてみようということになります。すると川の中から九尺もある熊手が見つかりました。これをお祀りしたのが兄井の熊手八幡宮で、大師が高野山を開かれる時、ご自身の産土神が八幡神であることからご神体を山上に持って行かれたということです。

 また、神功皇后が旗を掛けたとされる松が「旗掛け松」として戦前まで残っていたそうです。

鎌八幡宮のこと

 兄井と三谷に祀られている熊手八幡宮は、現在は鎌八幡宮として知られています。その由来はこういうものです。

 ある日、草刈をしていた宮司さんが一休みしようとそばにあったイチイの木に鎌を打ち付けて、そのまま一晩忘れてしまいました。

 翌日、鎌を抜こうとしたところが、かなり深くめり込んでいて抜けなかったそうです。それで、八幡神がこの木に乗り移られたのだろうということになり、願い事がある者は鎌を打ち付けるという奇風が始まりました。

 不思議なことに、願い事がかなう場合はどんどんめり込んでいきますが、かなわない願い事は鎌が押し出されてしまうのです。

 この鎌八幡宮は江戸時代にはかなり評判になっていたようで、兄井には鎌を売る店が何軒かあったそうです。前出の紀伊続風土記には絵入りで紹介されています。

 現在でも、鎌を打ち込まれたご神木を兄井と三谷の両八幡宮で見ることができます。

熊手八幡宮の霊験

 萬治二年七月二十一日のこと、往生院谷の本願院に鎮座された翌日の御旗懸法会の後、下総の正福寺から留学の客僧が荘厳を拝することを欲してひそかに神前に入り込みました。

 かの僧は神宝の矢を取り、あなどって言うには、「たとえ神物でも多勢には敵わないだろう。神力など怪しいものだ」と。また、銘刻がよく見えないので鼻端の油を粘して銘を読み、無造作に矢を壇上に置いて部屋に戻りました。

 さてその晩、雷鳴がとどろくと同時に一人の神人がかの僧の寝坊に現われました。背は高く、衣冠をつけ、弓矢を帯び、怒眼らんらんとして言うには、

「吾はこの神の使いなり。汝みだりに神徳を軽んじ、霊器を汚す。いま現に一箭の弓勢を知らしめん」

 神人は弓を引きしぼり僧に向かい、僧は怖れのあまり絶叫しました。その声は近隣の院にも及ぶほどで、驚いた人々が来てみると、僧はその場で悶絶していたのです。水薬を与えてようやく気を落ち着けましたが、僧の袖を貫いて一尺五寸ほどの矢が席に突き刺さっていました。

 かの僧はざんげの涙にむせび、「私は神の祟りを受け、生き永らえることはできないであろう。どうか私のために罪を謝していただきたい」と院務に請いました。

 その後、何程もなかったので僧は大いに喜び、件の矢をもらい受けて自分の寺に戻って社を建て、新八幡と称して大いに尊崇したということです。

 また天正十年(1582)三月上旬、織田信孝を大将とする六万余騎の軍団が高野山を焼き討ちしようと陣を構えていました。

 まず橋口隼人に命じて防御させ、一山の大衆は八幡宮(当時は宝積院)の神前に集い、五壇の法を修して怨敵退散を祈りました。

 すると、不思議にも神前の御熊手が動揺し、数千の白鳩が山の四方から飛び現われ、麓をめざして連飛しました。その声はまるで鯨波のようで、敵兵は数万の猛勢が襲って来たと勘違いし、我先にと敗走、一山は恙なきを得たのでした。

 これらの霊験話は阿逸多院の法印卓元が同年八月十五日に記した巻子本にあるものです。同記には、「まさに知る。神明の助罰とも摧邪帰正の方便なりと。ああ怖るべし、尊ぶべし」とあります。

 つまり、ご神仏が人を助け、あるいは罰をくだすのも、間違いを正す手段に他ならない、ということです。穏やかに諭すだけでは充分でないこともあるようです。

文責 一雕雲

弘法大師出生資料カテゴリの最新記事