弘法大師ご誕生の霊跡

弘法大師ご誕生の霊跡

 日本人であれば誰もが少なからずその恩恵に浴している、高祖弘法大師空海。IQ200以上はありそうなその天賦の才と、時の権力者から庶民に至るまで敬い慕われ続けるお人柄。

 仏教史に燦然と輝くその名声ゆえに、歴史のほんの一行を飾るにすぎない些末な問題が、江戸時代の後期、善通寺誕生院と海岸寺の間で争われました。弘法大師の真のご誕生所はどこかという本家争いは当時の人々の耳目を騒がせ、大論争へと発展したのです。

 しかし、事を穏便に済ませようとする時の権力者たちの意向に添い、問題の核心には触れられないまま「和解」させられたのでした。

 あれから二百年を経て情報化社会のこの時代、豊富な資料をたずさえて今ようやく問題の核心に迫ろうとしています。真実は自ら明らかになろうと望むがゆえに。

文化年中のご誕生地論争

 文化12(1815)年、善通寺誕生院はご領侯丸亀藩へ訴えを起こしました。海岸寺の住職快道が「弘法大師ご誕生所」を名乗り、世人をたぶらかしていると云うのです。

 路傍に「屏風浦道」などの建石をし、船問屋の道案内や勧化帳に「大師降誕の霊蹤」と大々的な宣伝をしているとして、差し止めを要請したのでした。

 丸亀藩は多度津藩を通じて訊問に及び、その答書と誕生院側の主張とがくり返されます。どこまで行っても平行線だった両者に対し、丸亀藩が近く誕生地訴訟の裁断を下すという運びになったのでした。

 このことを聞き及んだ京都の智積院座主能化僧正は、藩において裁決が下される前に、事穏便に内済すべきではないかとの書状を海岸寺の本山たる京都の嵯峨御所大覚寺に送ったのでした。

 そこで、大覚寺は本寺明王院(77番道隆寺)と海岸寺各住職を呼び寄せ、事情聴取を行い、文化13年8月、「教令書」を下し、縁起、勧化帳、建石などの差し止めを申し渡しました。

嵯峨御所「教令書」

「讃州多度郡北鴨明王院末海岸寺は往古高祖大師母公別館の旧跡にて御産所あるいは御初誕之霊跡と称し来り候旨云々、もっとも往古より異論などこれ無き処、近頃に至り同寺より勧進帳の縁起に御降誕之霊蹤としたため、建石などいたし、船問屋道案内切出しなどにも相載せしめ流布候に付いては、同国誕生院に差障り候に付き、同院より其御領庁へこれ訴え・・」

 誕生院は丸亀藩、海岸寺は多度津藩のご領内にあり、争論が手広くなることは宜しからず、とご領侯への配慮を見せています。

 一方で、大師産土神熊手八幡宮のこと、迦毘羅衛院の院号など由緒久しく、全く新規の偽称にはあらず、と理解を示し、ご旧跡の称号が一時に空しくなりゆくのは高祖の冥慮の程にも恐れ入り、数代の先住職に対しても悲感痛切の至りであり、ここに進退極まると心中を明かししています。

 結論として、「たとい千年の上、その母公之別荘、御産屋之所に相違なくとも、既にその父公之本居をもって降誕之所たるは古今とも異論に及ばず」、また、当御所中興の後宇多法皇が善通寺をご誕生所と書き記したご綸旨があるから、これに差し障ることがあってはならないと理由を述べ、争論が起こる以前の静謐となすため再三教諭の上、差し止めるのであると云います。

 その代わり、今後は「御出化初因縁之霊跡」と称し、「御初誕所、御産所」と称してはならないとしたのです。

 これでは、海岸寺を事実上のご誕生所と認めたことになるではないか、と誕生院側が反論したのも無理ないことでした。その後の丸亀藩の裁決では、産盥石は没収、産盥堂再建は停止、旧堂も取り払わなければならないとしたのです。

 ところが、多度津藩主から丸亀藩家老あてに、今少し寛大な処分をとの書状を致し、産盥石の他見を許さずという程度で済まされることになったのでした。

 これらの訴訟は、ご誕生所がどちらであるかという本題には踏み込まず、藩政に差し支えないよう配慮された内容だったわけです。

 「ご誕生所」ということに関して、「朝廷から裁決が下され」「海岸寺側が敗訴した」とか、住職快道が罷免されたとか、それらは事実ではなかったわけです。

 その後、十五年を経て、天保三(1832)年、大覚寺役方より、「海岸寺は大師出化初因縁之霊跡たるによって、嵯峨御所ご門主深くご信仰あり、ご祈願所に仰付け、永代朝夕ご代拝を命じ、荘厳として玄関に翠簾(すだれ)をご寄附あるべきに付き、丸亀多度津両藩においてご承認ありたく」と申し越しがあったのでした。

 これは、以前の教令書に反するとして両藩からお断り致し、海岸寺からも辞退する旨申し出たのでした。しかし、御所側はなおも申し越し、三年越しの数度のやり取りがなされたのでした。

海岸寺は海だったか

 瀬戸内海がほぼ現在の形になったのは約八千年前とされています。六千年程前、縄文海進と云って、現在の海面より約3メートル高いところまで一旦海になり、五千年前に現在の形が定まりました。

 大師が誕生した1200年前には海岸寺は海の底であり、善通寺あたりまで海であったとする説も根強くあります。しかし、現在の地形で善通寺は内陸5.5キロもありますので、考古学的にはあり得ない話です。

 海岸寺奥之院裏手のおたらい山標高50mの所からは1500年前の箱式石棺や鉄剣、人骨が発掘され、町指定の御盥山古墳となっています。

 南麓の西白方瓦谷遺跡(標高3〜20m)では、縄文中期後半約5500年前の土器、弥生時代後期1800年前の竪穴住居、鎌倉時代800年前の遺構が発掘されています。

 さらには、多度津と善通寺の中間に位置する山階(やましな)の田中で、大正4年当時、日本最大の6.7センチのメノウ製勾玉(現在、東京国立博物館所蔵)が発掘された盛土山古墳があります。

 もし、善通寺あたりまで海だったとすれば、この平野部に十ヶ所以上もの古墳があり得るはずはありません。

「弘法大師誕生地の研究」の著者乾千太郎氏が云うように、「浦は海濱のものとのみ思ふ妄執」であって、山の裏、山陰、山末も「うら」と云うのであれば、確かに「屏風浦善通寺」であっても構いません。ですが、屏風ヶ浦が海であったとしたら、白方(しらかた=白瀉)以外には考えられないわけです。

 白方という地名の初見は、道隆寺歴代住職が書きつづった「道隆寺温故記」の寛弘2(1005)年の条に「奥白方船岡山薬師堂造営畢。・・是ハ白方ノ庶民、前年疫疾甚シ」と見えています。大師誕生から年経った平安末期のことです。

海岸寺の縁起

 海岸寺の「縁起」は実は二種類あります。一つは高野山の寂本が記したもの、今一つは平安末期の保延5(1139)年に住職だった観応が認(したた)めたものです。

 観応の縁起には、天正18(1590)年に時の住職実存が発見して「歓喜のあまり」浄写した、との付記があります。「讃州多度郡屏風浦海岸寺縁起」と題されており、以下のような内容です。

「当院は大同年中弘法大師の草創、本尊弥勒菩薩は大師自ら彫刻したものである。所以を尋ねれば、御母公殊(こと)にこの浦の風景を愛(め)で、海岸に別館を構えて時々ご遊覧あらせられた。水無月中旬のお産なれば、この別館に炎暑をしのぎ、験に安らかに御降誕ましましける。大師御成徳の後、故国に経回してこの浦に道場を営み、御母公の愛し志をついで海岸密寺と名付けた。

 その後、緇素(しそ=僧と俗人)どもが御降誕にちなむ霊場であるからと石を彫って産盥(うぶだらい)をかたどり、松を植えて湯巾掛の松と号し、泉水甃(いしだた)みして産井と称した」

 旧暦の六月と云えば、現在の七月で、真夏日の出産ともなれば避暑地を求めるのは当然でしょう。海岸寺は海に面し、かつ山陰にある奥の院は結構涼しいのです。善通寺や仏母院は田んぼに囲まれた平地ですので隠れる場所がありません。冷房の無かったこの時代、安産の為に涼しい奥の院の地に産屋を設けるのは理に適っていることと云えましょう。

 別館というからには、本館があるはずです。玉依御前のお屋敷が在ったとされる場所には、現在、三角寺仏母院という寺があります。御住(みすみ)屋敷を「三角」と書いて寺号としたわけです。大師の胞衣(えな)を埋めたとされる御胞衣塚、幼少の頃に作ったとされる泥仏地蔵菩薩、熊手八幡宮のご神体であった鉄製熊手、嵯峨天皇勅額「八幡大菩薩」などがあります。胞衣とは、胎児を包む膜や胎盤のことで、生後、壺に納めて吉方位に埋める風習がかつてありました。

 「四國徧礼霊場記」の編者として知られる高野山宝光院の学僧寂本は、当時の住職智観の依頼を受けて、「讃州多度郡白方屏風浦迦毘羅衛院海岸寺縁起」を記しました。そこにはこう書かれています。

「古老の言い伝えによれば、ここが屏風ヶ浦で、大師ご誕生の後、怪異が多く、村人らはこれを不祥の兆であると忌み、両親は赤子を連れて仙遊原(現在の善通寺市仙遊町)に転居した」

 古今東西、聖人君子のご誕生にともなう奇瑞はよく聞かれる話ですが、吉兆が不吉の兆とされて、転居せざるを得なかったとは他に聞いたことがありません。現在、仙遊ヶ原には弘法大師児童尊を祀る仙遊寺という寺があり、大師幼少のゆかりを今に伝えています。

弘法大師出生資料カテゴリの最新記事