弘法大師出生にまつわる海岸寺資料集成

弘法大師出生にまつわる海岸寺資料集成

弘法大師空海さまの出生と海岸寺の関係に関する資料をあげさせていただきます。以下の文献から引用しました。引用させていただいた文献の内容は、必ずしも「正しい」とは言えませんが、引用させていただいた事実に対し、各著者の方々には御礼を申し上げます。

「空海」 八尋舜右  成美堂出版  1984年

 空海の誕生したとされる屏風ヶ浦は、この讃岐国の西寄り、多度郡弘田郷――現在の仲多度郡多度津町と善通寺市の一帯だったと思われる。いま屏風ヶ浦とよばれる海岸は善通寺市からかなりはなれているが、空海の時代はもっと海岸線がふかく内陸にきれこんでいたのではなかろうか。(中略)

 海風が吹きぬける海岸寺駅の北西にひろがる磯が屏風ヶ浦である。おだやかな砂浜の磯で、老松が美しい。この磯に面した松林のなかに海岸寺はある。納経山迦毘羅衛院。四国八十八ヶ所霊場の番外札所となっている。嘉永年間(一八四八〜五四)再建とつたえられる本堂ほか、大塔、護摩堂、大師堂、客殿がたちならび、真言寺院らしいたたずまいを見せる。この地は空海の母方・阿刀氏の別荘があったといわれるところで、玉依はここに産屋を設けて空海を産んだとつたえる。大同二年(八〇七)というから唐より帰国した翌年にあたるが、空海がここに小堂を建立し、自分できざんだ聖観音像を安置したのが寺の起原とされている。誕生寺としては別に善通寺があり、文化年中(一八〇四〜一八)両寺のあいだに本家あらそいがおこったが、海岸寺は大師因縁の霊跡、誕生地は善通寺とするということで和解が成立したという。

「空海と霊界めぐり伝説」 上垣外憲一  角川書店  

 今日、弘法大師空海の生誕の場所は香川県善通寺市の善通寺であるとされている。しかし、江戸時代までは多度津の海岸寺が空海誕生の寺とされており、遍路の人々もこの寺を訪れるのが普通であったらしい。江戸時代に弘法大師生誕の場所をめぐって争論が起き、海岸寺が敗訴した結果、善通寺が空海誕生の地として確定されたということである。これは、単なる本家争いの問題にとどまることではない。ある意味で空海という人物の性格や思想のあり方にまで関連する重大事であり、ひいては平安時代の日本人の様々な思想様式にも深く連なることであることを、以下説明したい。

 海岸寺のある多度津の地は、空海の母の氏族である阿刀氏の領域である。それに対して善通寺は父の氏族である佐伯氏の氏寺なのである。結婚の形態が、嫁取り婚が普通のものとなり、出産も当然夫の家で行われることが普通になった江戸時代の裁判で、父方の家で空海が生まれたとされたのは、ある意味で当然であるが、母方の家に夫が婿入りすることが普通で、母方の祖父母が生まれた子供の養育を担当することが普通だった平安時代の慣習から言えば、母方の実家で空海が生まれたという伝承に信憑性を感じないわけにはいかない。

 海岸寺はその名の通り、海にすぐ面した場所にあり、産湯を使ったという井戸が残されている。その近辺には母の玉依御前の屋敷跡だったという仏母院も残っており、空海の胞衣(えな)をおさめたという胞衣塚まである。(後略)

「弘法大師紀行」  真鍋俊照  平凡社  昭和49年

現在でも大師が誕生した誕生地屏風浦には海岸寺があるが、そこの産湯水は大師が生れたとき産湯をつかわれた井戸で、この水を飲むと眼病に効くといわれている。(中略)

 大師の誕生の地そのもについては宮崎忍勝氏も『新・弘法大師』で指摘しているとおり、江戸時代に善通寺側と海岸寺側との間に訴訟がおこされたことがある。

 文化八年(一八一一)に、多度津市白方にある海岸寺側が当時の領主多度津候に、白方付近の海岸を屏風浦といい大師の誕生地は当寺の方です、と主張し始めた。それをきいて、善通寺側も再三、領主丸亀候に、あくまで弘法大師の誕生所は善通寺なる旨反論した。互いに平行線のままで色々なやりとりがあったが結局、六年後の、文化十三年(一八一六)八月十四日、嵯峨御所から御理解書というものが下って解決したという。御理解書によると――善通寺は、大師の父田公の邸宅地であり、海岸寺は母玉依の別荘である。よって、善通寺は父の本居なるを以って降誕の所に相違なく、海岸寺は産屋の所に相違なしというものであった。

「金刀比羅参詣膝栗毛」其ノ弐拾七  十返舎一九

この峠を越えて屏風浦というところに下りた。

薄墨隈どる霞ひきわたす

屏風浦の春の景色

それより弘法大師が誕生されたといふ、垂迹の御堂を過ぎて、十四津橋を渡り、多度津の御城下に至る。

「讃陽綱目」  中川吉益  宝暦七年

弘法大師出生ノ地ナリ、京都ヨリ古郷ニ帰リ給ヒ、此所ヲ屏風浦ト號シ給フト、

「屏風浦めぐり案内」 宮武福太郎  屏風浦案内社  昭和11年発行

 此自動車の終点は、之れが名高き海岸寺。大師に最も縁深く、今でも屏風浦てふは、此所と計りに思はれて、四国巡拝する人は、必ず此お寺に詣でられ、尚霊験もあらたにて、躄が立ちて歩き出し、唖がもの云ひ目が開き、不思議と云ふも有難き、経納山伽毘羅院で御座います。(現在では使用しない言葉もありますが、歴史的事実に正確を期すため、そのまま引用してあります。ご了承ください)

「四国新聞オアシス」  2004年9月3日付

 江戸末期、空海にまつわる多くの俗説が流れ、その一つに空海の母・玉依御前の里にほど近い多度津・海岸寺が空海誕生の地という新たな説がありました。出生地を巡る論争は朝廷の判断を仰ぐまで発展しましたが、複雑な事情が絡み結論が出ず、遂には江戸幕府の寺社奉行の判断に委ねられました。

 結果、歴代天皇による公式文書である綸旨他、数々の古文書を検証の末、「空海誕生の地は善通寺である」と決着がつきました。問題発生から実に12年の歳月が経過しておりました。

「弘法大師傳」  守山聖真  国書刊行会  昭和48年

 大師は上記の如き家系に於いて佐伯直田公を父として讃州に生れた。その御誕生所は現今の善通寺市の善通寺であると称されている。即ちこの善通寺は十七年間の紛争が解決して、昭和六年に善通寺派と云ふ一派を形成したところの寺院である。而しこれにも異論があつて普通には屏風ヶ浦に誕生せられたと云ふ事なつて居るので、海岸地方にあるものと思はれ、三教指帰にも玉藻帰る所の島、橡樟日を蔽ふ所の浦と大師自らが称して居るので、後人には海を遠く離れて居る現今の善通寺市を以てしては大師の記に相応しないと云ふ感じを起させて誕生所に関する異論が生じた。それで多度津港附近白方村海岸寺を以て真の大師誕生所であると云ふ説を生み、享和年間に両者の間に訴訟事件も生じたと云うふが、現在に於いては善通寺を以て御誕生所と認定され、古徳に於いても之を認めて居たのは矢張り確実な根拠が善通寺の方にあつたからであらう。

「空海とヨガ密教」 小林良彰  学習研究社  2007年

 空海の生誕地は四国霊場の第七十五番札所・善通寺ではない。確かに、そこは父親・佐伯善通(佐伯直田公)の住所ではあった。しかし、空海がそこで生まれ、育ったと断言することはできない。(中略)空海が生まれ育った場所は、多度津の母方の屋敷であった。現在「仏母院」と称する寺院になっている。そこには「弘法大師産湯の井戸」があり、「えな塚」と呼ばれる、空海のへその緒を埋めた塚もある。(中略)

 なお、もうひとつ別な寺院が生誕地の名乗りをあげていた。そのため約五十年前、生誕地論争は三つ巴になっていた。今はその寺院が主張することを取りやめたので、寺号は書かないことにする。

「同行二人四国遍路たより」  安達忠一  昭和9年

 当寺は大師御出化初因縁の霊跡と称せられ平城天皇の大同二年大師御歳三十四の御開創で、昔は七堂伽藍四十九坊甍を列ねて法燈熾でありましたが、天正十一年長曽我部の兵せんに罹り焦土と化したのであります。大師御誕生の地に付ては海岸寺と善通寺と二説ありまして、殊に文化年中には数年の紛擾を極め遂に朝廷へ訴へましたが、同十三年八月十四日嵯峨御所から御理解書が下り「海岸寺は縦令千年の上の其母公の別荘御産屋之所相違無之共、既に其父公の本居を以て降誕の所たるは古今共異論に不及は勿論にて在之候」とし、善通寺を誕生所、当寺を出化初因縁之霊跡と命名して解決を見たのであります。

「空海の足跡」  五来重  角川書店  平成六年

 五来 弘法大師がどこで生まれたかというと、従来、誕生院といっている善通寺が、もちろんいちばん分があるわけですけれども、それに対して海岸寺のほうにも主張があるということで、多少そこに疑いが持たれたところです。(中略)

 この五岳を奥の院としますけれども、海岸寺が、自分たちのほうに弘法大師が生まれた産湯の井戸があるとか、誕生の跡があるということを江戸時代から主張したのには、何らかの形で、善通寺と白方の海岸寺との間に関係があったのでしょう。

 これを解く道として四国の八十八か所の辺路のお寺には、海岸に奥の院があることが多いのです。たとえば八栗寺の場合、八栗寺の奥の院といっているのは後ろの五剣山ですけれども、お寺で聞きますと、これよりもう一つ北の海岸に竹居観音というのがあって、これも奥の院だといっています。ですから、山も一つの奥の院だけれども、海にも奥の院がある。(中略)

 これは海岸寺と善通寺の関係として、即ち善通寺にお詣りしたものは、同時に海岸寺にお詣りをするという関係があったものでしょう。山の札所へ詣るものは我拝師山にも詣り、そして海の札所の海岸寺にも詣るという関係が、善通寺と海岸寺の、本寺と奥の院の関係を示しているものと思います。

 それが江戸時代に忘れられて、弘法大師が生まれた、生れないという問題に変化したのだろうと思います。弘法大師の誕生の地を争う、善通寺と海岸寺の争いは、本寺と奥の院という考えにおきかえますと、円満に解決できると思うのです。

「霊場巡礼?四国遍路の寺(上)」  五来重  角川書店

 私の推定では、善通寺は古代寺院としては非常に大きな寺院で、奥の院は一つは山に、もう一つは海にあったわけです。善通寺にも海岸寺にも弘法大師が生まれたという伝説があります。両方に産湯の井戸があるということは、すなわち当時は善通寺と海岸寺が一つのものだったからです。

 本寺の善通寺と奥の院の海岸寺を行き来するときは、甲山寺を通ったわけです。小さな丘陵に毘沙門天をまつった洞窟があって、ここまで一キロぐらいで、あと四キロほど行くと海岸寺に出るので、修行者はここを中宿りにして行ったのだとおもいます。(中略)

 善通寺から甲山寺を経て海岸に行くと海岸寺があります。現在は番外札所となっていますが、善通寺の奥の院ですから、善通寺に参った者は必ず海岸寺に参っていたはずです。それで番に数えられなくて、番外札所となったわけです。伽藍と宿坊をもつ海岸寺は、寛政年間(一七八九〜一八〇一)に大師誕生所を善通寺と争ったりしたこともありまして、大師の産湯の井戸を誇っています。(後略)

「空海の風景」上巻  司馬遼太郎  中央公論社  昭和50年

 空海がうまれたのは、善通寺からはずっと海岸のほうの、いま海岸寺といわれる寺の所在地がそうだともいわれているが、出産のとき海浜に産屋でも設けられたのがそういう伝承になったのかもしれない。

 空海の生誕の地は、いまの善通寺の境内である。

「弘法大師傳」  蓮生観善  高野山金剛峯寺  昭和六年

その頃この辺を屏風ヶ浦と申して居りました、尤もこの屏風ヶ浦と謂う地名につき後世異説を生じ、多度津町の西白方一帯の海岸を屏風ヶ浦と云ひ海岸寺はその御誕生の聖地なりと唱へ、遂に官裁を仰ぐに至つた事が全讃史などにも記されてあります、それは文化八年より五六ヶ年間の久しきに亘りて相ひ争ひ、善通寺はその領主丸亀公に願ひ出て、海岸寺はその領主多度津公に願ひ出て、各々自分の寺が誕生所であることを訴へ、両領主は本家分家の間柄だつたので一層妙にこぢれて紛糾し、容易に解決に至らず、遂に朝廷に訴へ官裁を乞ふたところ、文化十三年八月十四日嵯峨御所より御理解書といふものを下され漸く解決いたしました、それに依ると土御門、後堀川、後深草、後宇多、伏見、桃園天皇等歴代天皇の御綸旨に明かに「善通寺は弘法大師誕生の霊地なり」と仰せられてあるからこれに違背する説を唱ふることは相成らぬと決定せられてあります、但し白方海岸の地勢を観ると、南方に天霧山、弥谷山の山脈東西に並列して恰も屏風を立て囲らしたるが如くなるに反し、善通寺は海岸より一里余りも隔てた処にあり、地勢より考ふれば白方の方が屏風ヶ浦と云ふにふさはしく、善通寺は屏風ヶ浦と云ふにふさはしくないやうに感ぜられます、が、之れは所謂桑海の変にて、千年以前は今の善通寺辺も海浜であつたのでありませう。

「弘法大師降誕地の研究」  加藤飯山  香川国粋新聞  昭和2年10月

 秋山博士は西讃府誌の巻末に於て其意見を記して曰く屏風が浦は、善通寺のこととも、又白方のこととも云ひて、論らう人あるは、空海の生れたる由により、とやかく云ふなるべし。されど善通寺は、空海の建られたる寺故、昔より尊つるにて、彼寺地即ち空海の産れし処と思ふは、取極めて狭き説なり。空海の産れし故其の地の尊きにはあらざるべし。古書に多度郡の人とあれば、産れ落ちたる処は何処にても有るべし。其の産室の処は今知る可からず。よし知りたりとも、さのみ尊むべきに非ず。古より空海におとらぬ人多かれど、其産れし処を尊む例外にあることなし。

「弘法大師誕生地の研究」  乾千太郎  大本山善通寺御遠忌事務局  昭和11年

 大師誕生の屏風浦善通寺誕生院の外に、大師の生れた屏風浦と称するもののあらはれたとすれば誕生地訴訟の起こるべきは当然である。しかるに三角寺佛母院に対しては、その事のなくして済み、海岸寺に対しても、久しい間その事のなかったといふは、その流布が口頭に止まっていたためであらう、しかるに文化年間に至り、海岸寺は大師母君の別館の旧跡と称し、大師は奥院産盥堂に於いて生れ、その時産湯に用いたのが、石の産盥であるといひ、その産盥堂再建といふについて、(中略)納経帳には、弘法大師御産生之所也、と書きはじめ。(中略)

 訴訟は佛門の欲せざるところであつたのであらう、荏苒目下十一年に及んだ善通寺誕生院も、事ここに至つては最早、訴願の止むなき運びとなり、叙上の顛末を具して、領主丸亀藩へ訴へ、文化二年以来、施設の条条差止め方を申請したのであった。

 そこで丸亀藩に於ては、右の趣を海岸寺の領主多度津藩へ移牒し、それに就いて多度津藩に於て海岸寺へ訊問に及んだ、その答書と、その答書に対する誕生院の具陳を、左に要を摘み併挙することにする。(中略)

 丸亀藩に於いて誕生地訴訟の裁断、其日近きにありと聞き及んだ新義真言宗本山智積院座主能化僧正には、藩に於て是非の裁決を下さざるに先だち、これを内済にとの配慮から、窃かにその意を嵯峨御所、大覚寺門跡にいたすところがあつた、海岸寺は大覚寺の門末だからである。

 それで嵯峨御所、大覚寺に於いては、海岸寺とその本寺明王院とを招致し、結局厚き説諭を加へ『理解書』を、作製して、領主の藩政に拘はらざるものに限り、文化二年以来海岸寺の企画施設に係るものを、嵯峨御所大覚寺に於いて差止め、而して『理解書』の壱通は内済仲介の労を執つた、(中略)

 元来、大師の誕生地といふものが二箇所あるべきものではない、ゆゑに事実、海岸寺が屏風浦大師誕生の地であるなら、誕生院から訴へられるまでもなく、誕生院を訴ふべきである。(中略)

 海岸寺は、大師母君産屋の別館、と称するは勿論。屏風浦と称することも禁ぜられ。所謂、石の産盥は没収。従つて産盥堂再建の停止はもとより旧堂をも取拂はねばならないことに、なつてゐたのである。

 ところが、その裁決が俄に変更といふことになつたのであつた。それは右裁決を、今少こし寛大にとの、多度津藩主、京極壹岐守自筆の書簡を、丸亀藩家老職、岡織部に致された結果であつたのである。(中略)

 それで前裁決に於いて、産盥は没収。産盥堂の再建は更なり、従来の堂舎も取拂らはねばならず屏風浦と称することも、堅く禁ぜられることになつてゐた海岸寺は、この度の申渡しによつて。産盥の他見は禁ぜられたが、没収は免かれ、産盥堂も、産盥堂といふ名目は勿論、再建としては許されないが、新堂として建築は許され。屏風浦も単に屏風浦と称することは禁ぜられたが、頭書か肩書には許された等、非常に寛大な処置となつたのであつた。(中略)

 海岸寺では、藩の申渡と、嵯峨御所大覚寺、差止の八箇条によつて、すべてを処理すべきところ其儘であつたのみならず、依然、「切出し」を配布するので取調べらるるところあり、(中略)縁起、及び絵図の版木、ならびに大師初誕之像に、屏風浦と書いた「切出し」の版木没収、産水之井建札、取拂ふべく命ぜられ(中略)、叙上のごとくにして、この訴訟の終局をつげたのであつた、これは實に文化十四年丁丑六月十三日のことである。(中略)

 大師誕生所訴訟結末から、十五年の間隔を見た天保三年に至り、嵯峨御所大覚寺役方から、丸亀藩京都屋敷留守居添役中野瀬恵六へ、

海岸寺は大師出化初因縁之霊跡たるに仍つて、嵯峨御所御門主深く御信仰あり、御祈願所に仰付け、永代朝夕御代拝を命じ、荘厳として玄関に翠簾を御寄付有るべきに付、丸亀多度津両藩に於いて御承認ありたく、それに就いて其旨國表へ移牒、よろしく取計られたい。

と申込まれたのであつた。(中略)

 それで多度津藩からは書面を以て、丸亀藩からは中野瀬恵六を使者として、嵯峨大覚寺へ参殿せしめ、

御内意の趣承はつたが、領法に差支あり、御意に応じがたし。

と断はつたのである。(中略)

 その後、嵯峨大覚寺から、何の音沙汰もなかつたので、全く断念されたものと思つてゐたが翌年の春も半ばを過ぎて、約束の予告もなく、突如両藩の家老職、及び寺社役方へ、直接掛合ひの運びを執り、その書簡四通の伝送方を、野路井金吾から、中野瀬恵六へ左の書面を以て、頼み越されたのであつた。(中略)

 御誕生といふのも、御出化初因縁といふのも、結局出生と解すべきものであらう、ただその言葉のかはつてゐるといふに過ぎないのである。

 いかに大師といへども、出生地の二箇所あるべき道理はない。さればこそ誕生地訴訟の起つた所以である。その誕生所論争の裁きに、善通寺を大師の誕生所と、明らかに認めながら、一方海岸寺へも誕生所とは紛らはしい、出化初因縁之霊跡、と申し渡すといふのが既にいかがなことである。(中略)

 また高野山ならび善通寺は、大師初後之御遺跡、相次で海岸寺は御出化初因縁之霊跡云々とあるが、善通寺は大師の誕生。高野山は大師の入定といふので、初後の遺跡といふのは、古来よく聞くところであるが、それに次いで海岸寺を、御出化初因縁之霊跡といふはいかがであらう。(中略)

 結局

此度の御頼み、甚だ好まざることではあるが仕儀によつては関東の御裁きと相成るとも、何処までも御断りに及ばるべし。

といふ断乎たるものであつた。

 そこで天保三年以来、三年越しの応答もこれで大団円を告げたのである。これは天保五年午の秋九月のことであつた。(中略)

 『屏風浦記』に屏風浦を白方だとなし、大師は海岸寺に生れたとありとすれば、それは『屏風浦記』の誤りであらう。善通寺が、大師の誕生所といふことは、綸旨、院宣、官宣旨、国司庁宣等、その他、古書古文書に徴し動かぬことである。既に善通寺が大師誕生の霊地たる以上、大師の生れた屏風浦が、善通寺所在の地以外にあるべき筈のないことになる。(中略)

 また八百十七年前、聖賢阿闍梨も、その『弘法大師廣傳』に、大師を多度郡屏風浦の人と掲げてゐるのである。

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