海岸寺年表

海岸寺年表

海 岸 寺 年 表

年号 西暦年月日  出来事
宝亀5 774.6.15 弘法大師ご誕生。奥之院の湯手掛の松あたりに産屋が建立されたと伝えられる。
大同2 807 唐より帰朝後(34歳)、弥勒菩薩像を刻み、海岸寺本堂を建立して安置。
弘仁6 816 42歳の厄除のため自刻像を刻み、一宇を建立して安置(奥之院の開創)。
貞観6 864.1015 境内の賀富良津神社に従五位下を授けられる。
「授讃岐国正六位上加富良津神十五位下」(『三代実録』) 
保延5 1139.6 住職観應のとき盛大を極め、楼閣四十余坊軒を列ねる。『海岸寺縁起』記す。
仁治4~
建長元
1244~
1249 
道範阿闍梨、讃岐配流の間、当寺に巡錫し、四天王と大師両親像を刻み、大師堂に安置。
文明5 1473  住職権大僧都法印秀智の代に法燈いよいよ盛ん。
天正11 1583 長曽我部元親の讃岐侵攻により、「仏閣僧坊伽藍等火煙と化し、法器霊宝灰と変ず」。
天正18 1590.6 住職實存、当寺再興を期し大師堂を上棟。
天正20 1592.6.15 大師堂入仏供養盛大に開催。(『道隆寺温故記』に記事あり)
   8.8 同年月日銘の棟札写しあり。(「産盥堂修造 本願沙門淨雲」)
寛永2 1625.9.26 多度津公生駒氏より燈明料として、「多度郡屏風浦西山鷺谷より濱分山林田畑」のご寄付あり。(書状現存す)
正保2 1645  権大僧都法印宗栄、一棟建立。(護摩札現存す)
元禄5 1692.6 高野山寂本大和尚来寺し、住職智観の要請により当山縁起を記す。
享保12 1727.7.6  御産盥池御影堂を建立の護摩札現存す。(「願主海岸寺住林秀 供養導師明王院堯嚴」) 
安永2 1773.夏  景似甫『屏風浦記』を著す。(現存)
寛政11 1799.2.21 大師堂本尊ご法楽供養奉修。(護摩札現存)
寛政13 1801.9 住職快道、客殿(現存)と庫裏再建。
安政3 1856  本坊再建。(現存)
明和6 1769.4.26  弥谷寺秀岡、当時のために尽力し、一宇建立。
文化2 1805.6  快道、産盥堂再建のため勧進。(版木現存)
文化9 1813  産盥堂再建。
文化12 1815 当寺が大師ご誕生所と名乗ることを不服として、善通寺誕生院は領主丸亀藩へ訴えを起す。同藩の分家である多度津藩より当寺へ事情聴取。
丸亀藩より誕生地訴訟の裁断が近く下される、との噂を聞き及んだ真義真言宗本山智積院座主能化僧正は京都嵯峨御所大覚寺門跡に事穏便に済ませるよう申し送る。
当寺の本山であった嵯峨御所は当寺および本寺明王院(道隆寺)を召致、事情聴取。
文化13 1816.8 嵯峨御所より藩政に関わらないものに限り、当御所において差し止める旨の「御理解書」を下す。智積院および誕生院へも同文が回付される。
誕生院方ではなお不服を申し立て、「産盥石没収、産盥堂再建停止」を丸亀藩を通じて 当寺へ通告。
しかし、京都九条家、髄心院門跡、多度津公より、寛大な処分を下されるよう申し入れがあり、同藩ではこれを撤回。
文化14 1817.6.13 丸亀藩より誕生院へこの一件完済の書状通告。
天保3.2~5.9 1832~
1834
嵯峨御所より菊御紋章付紫幕、御紋付提灯、翠簾など当寺へご寄付あり。
御所より丸亀藩京都屋敷へ、海岸寺を御祈願所に仰せ付け、永代朝夕代拝の旨、承認されたいと申し入れあり。
度々の申し入れに本国へ伝達したが、丸亀藩では領政に関わるとして固辞す。当寺からも辞退の旨、書簡を送るも、御所より同藩家老衆、寺社役へ再三申し入れあり。
丸亀、多度津両藩より、「萬一関東(幕府)之御裁断に相成候」とも固く断る旨の書簡を送る。
明治16 1884.7.6 琴平松尾寺多聞院住職片岡象範より、当寺へ合寺の依頼あり。
    9 多聞院廃寺し、当寺へ合寺す。
明治28 1895.晩春 本坊脇に芭蕉句碑を山地松琴氏建立。
明治33 1900.8.10 道隆寺兼務住職和氣宥雄、醍醐派独立し初代管長就任。当寺も同派に所属。
明治34 1901.4 多度津結衆一同より、海岸寺兼務住職木曽性海(最明寺住職)に対し、辞職勧告。
   4.28 木曽氏に対し、所轄本山大覚寺派管長高幢龍暢より罷免申し付け。同時に和氣宥雄に兼住職特任の辞令。
   5.16 木曽氏は当寺宝物類を舟で持ち出そうとしたところ、当寺総代の一人森岩之助(のちの町会議員)に取り押さえられる。
   5.25 釋仁仙および当寺信徒総代ら、木曽氏を強制退去させる。
   6.9 仁仙他6名より、内務省へ伺い書提出。(『宝物什器併寄附金濫用処分ノ義ニ付伺』) 
   7.8 木曽氏より占有回復の訴訟がなされたが却下。
   8.1 木曽氏再審を申し立て。
   9.11 高松地方裁判所より再審すべき判決が下る。その後、小川光義僧正の仲裁により訴訟事件調停。 
明治
38~39
1905.4.24~
1906.1.27
本坊裏手の海岸にロシア兵捕虜収容所(正式名称「善通寺俘虜収容所」)が開設され、一千名が生活。
大正2 1913.3.14 高橋霊玉師、副住職拝命。
大正4 1915.1.26  住職拝仕。
     5.6 本堂、奥殿、中殿を移転改造。
大正5 1916.3.14  不慮の失火により大師堂など四棟全焼。
大正9 1920 大師堂奥殿落成。
昭和7 1932.11 御産盥山不動坊落成。
昭和9 1934 大師堂落成。
昭和10 1935.8 澄宮殿下御光臨。
昭和28 1953.5.14 二重塔上棟。
昭和34 1959 二重塔内、薬師如来入仏落慶供養。
昭和37 1962  高橋厚温師、讃岐一国詣りバス巡拝始め。
昭和38 1963.4.2 高橋霊玉大僧正遷化。
昭和39 1964.8 ユースホステルの個室落成。
   12.1 まんだら教報第一号発刊。
昭和40 1965.5 厚温師晋山式。仁王門落慶法要。
昭和43 1968 別格二十霊場会結成、第十八番札所となる。
昭和44 1969 夏期学童合宿始め。
昭和48 1973 屏風浦会館建設。
昭和53 1978 讃岐十二支霊場会結成、卯歳本尊文殊菩薩お迎え。
昭和59 1984.10.21 奥之院の石造禅定大師像安置。
昭和62 1987.11.22 文殊菩薩開眼祈願祭。
昭和63 1989.2.19 四国三十六不動霊場開創記念法要(於当寺)、第三十一番札所となる。
平成3 1991.4.29 文殊堂落慶法会。
平成12 2000.5.5 宝物館完工。
平成13 2001.4.29 大般若菩薩開眼奉安御法楽供養。 宝物館テープカット。
 4.30~5.3 宝物館公開。
      5.1 高橋玉温住職辞令伝達式。
      5.4 海岸寺有縁凹凸十三仏、弁天堂本尊、七福神開眼供養。
      5.5 柴燈大護摩。
平成20 2008.7.19 高橋厚温師遷化。
平成21 2009.12 公式ホームページ開設。
平成22 2010.6 日本ユースホステル協会を離脱し、民営ホステルの会に所属。

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