海岸寺縁起

海岸寺縁起

海岸寺の略縁起         ※現代語訳

 そもそも当山は弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡にして、この地を屏風ヶ浦(びょうぶがうら)と称し、寺を経納山(きょうのうざん)迦毘羅衛院(かびらえいん)海岸寺と号す。

 つらつらその所以(ゆえん)を案ずるに、銀沙(ぎんしゃ)平坦(へいたん)にして茂林(もりん)緑を凝(こら)し、北は渺々(びょうびょう)として海水瑠璃(るり)の如く、布帆(ふはん)その上に東西して弘誓(ぐせい)の船の生死(しょうじ)、海中に往来するもまたかくやあらんと思へり。

 南は千仭萬丈(せんじんばんじょう)の山翠黛(すいたい)を空に聳(そび)やかし、連山参差(しんし)としてあたかも屏風を立てたるが如くなる故に屏風ヶ浦と称するなり。

 大師一石一字の法華経を書写し、堂前の山に納め玉ひしを以って経納山と云ひ、迦毘羅衛(かびらえ)とは中天竺(ちゅてんじく)の國の名にして即ち釈迦如来誕生の地なり。

 大師の母后(ははぎみ)、天竺の聖僧五色の雲に乗じ、光明赫奕(かくやく)として来たりて懐(ふところ)に入ると夢見玉ひて大師を妊胎(にんたい)し、人王(じんのう)第四十九代光仁天皇の宝亀(ほうき)五年甲寅(きのえとら)六月十五日に至りて、十二の建辰(けんしん)を満じ十指の爪掌(そうしょう)を合わして出化ましませし霊地なるゆえに、釈迦如来御誕生の地に擬(ぎ)して迦毘羅衛院と号し、海に傍(そ)ふたる寺なる故に海岸寺と名づくる也(なり)。

 しかのみならず産湯(うぶゆ)の井(いづみ)には八功徳(はちくどく)の水を湛(たた)へ、湯手掛(ゆでかけ)の松には四曼常恒(しまんじょうごう)の色を呈す。

 法爾(ほうに)の荘厳(しょうごん)自(おのづか)ら殊勝(しゅしょう)の趣(おもむ)きを示し、自然(じねん)の風景実(げ)に法性(ほっしょう)の相を粧(よそ)ふ。

 ここを以って大師御誕生の式文には、五岳南に聳(そび)へて雲微細(みさい)の浄光を顕(あらわ)し、百川北に瀉(そそ)ひて浪(なみ)恒説(ごうせつ)の法音を表すと、まことに所以(ゆえ)あるかな、豈(あ)に随喜渇仰(ずいきかつごう)の想ひを発(おこ)さざらんや。

 今開帳し奉る所の児(ちご)大師の尊像は、大師御誕生ましませし時の御姿(みすがた)にして、四十二歳の時御手(みて)づからこの像を刻み玉ひて、末代に至るまで出化初因縁の霊跡なる事を知らしめんが為に、産井(うぶい)の傍(かたわら)に一宇(いちう)を建立して安置し玉ふ所の尊像也。

 左右に侍衛(じえい)せる四天王は道範阿遮梨(あじゃり)彫刻して安置し奉る所なり、ひそかにその由来を尋ぬるに、我國(わがくに)古(いにしえ)に於(お)いては毎年都より巡検使を発し、國々の民の安否を視察せしめ玉ふ掟(おきて)なれば、勅使詔命(みことのり)を奉じて当國へ下り玉ひし時、大師幼(いとけな)うして諸(もろもろ)の小童(わらんべ)と共に遊び玉ひけるに、四天王白傘蓋(びゃくさんがい)を取りて前後に囲繞(いにょう)し奉るを見て馬より下り恭(うやうや)しく礼して曰(いわ)く、公(きみ)は凡人(ぼんにん)にあらず、四天王白傘蓋を取りて左右に囲繞せり、定めて知んぬ佛菩薩の化身なりと。

 隣里の人これを聞いて大いに驚き御名を神童と称し奉りぬ、この事載せて御伝記にあり。

 高野山道範阿遮梨故ありて当國へ巡遊せられし時、当山に詣でてこの尊像を拝し奉る折から勅使の奇瑞を思ひだし、幼稚の不思議を永く千歳(ちとせ)に伝へんと欲して四天王の像を刻み、児尊像の左右に安置し奉る所なり。

 大いなる哉、大師の徳たるや幼稚の時すらなお既にかくの如し、いわんや無比の誓願を発(おこ)して肉身に三昧(さんまい)を證(しょう)し、身を高野の山に留めて神(たましい)は兜卒(とそつ)に遊び、日々影向(ようごう)を闕(か)かずして所々の遺跡(ゆいせき)を検知し、佛前佛後の衆生(しゅじょう)を愍(あわれ)みて龍華三会(りゅうげさんえ)の暁(あかつき)を期(ご)し、摂化利生(せっけりしょう)の益(やく)を施し玉ふ事、豈(あ)に頼母(たのも)しからずや。

 しからば則(すなわち)一度(ひとた)びこの霊場の砂をふみ、この尊像を拝し奉るものは五逆十悪の罪たち所に滅し、現世には息災延命にして無辺の利益(りやく)を蒙(こうむ)り、未来は必ず大師の引導(いんどう)にあづかりて浄土に往生(おうじょう)する事さらさら疑ひ有るべからず。

 依(よ)って信心の誠を凝(こ)らして御拝有るべきもの也。

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