弘法大師出生について補足情報

弘法大師出生について補足情報

室町時代の特異性

 日本の歴史をたどってみますと、室町時代の頃が大きな転機になっていることに気付きます。天皇や貴族が天下の政治を担っていた時代から、その雇われの身であるはずの武士が武力でもって統治する時代、下剋上の時代へと移り変わります。

 このことは、日本の社会のあり方を根本的に変えてしまった点で重要な意味を持っています。それまで母系制社会であった日本が家父長制へと実質的な転換をなし、女性の社会的地位の低落と男性優位の社会をもたらしたからです。

 そして、平安時代まで男性が女性宅へ住み込むという婿取り婚だったのが、室町時代には女性が男性側へ嫁ぐという「嫁取り婚」へと変ってしまうのです。

 なぜ海岸寺が番外なのか、とよく訊かれますが、それに答えるには八十八ヶ所成立の時代背景を理解する必要があります。

 室町時代と云えば、「庶民の文化」が発展した時代で、公家や武家だけでなく、農民や商人の顔がようやく歴史の表舞台に見え始めた時代です。茶道や華道、能楽、絵画など世襲・専業化して家元制や流派を生じました。この時代に学問、芸術、信仰は体系化され、庶民の間に花開き始めたのです。

 四国八十八ヶ所の番付けもこの頃になされたものと考えられます。高知県の越裡門地蔵堂にある鰐口の銘に文化2(1471)年とあるのが、88という数字が確認できる最古のものです。西国三十三観音や四国八十八ヶ所の写し霊場が各地で作られ始めたのもこの頃です。

 時代の趨勢を鑑みるとき、大師の母方の海岸寺が八十八ヶ所の選に洩れ、父方の善通寺が選ばれるのも、「男性優位の社会が制度化された時代の反映」と見ることができるのではないでしょうか。

蕪津と賀富良津神

 海岸寺のそばを流れる弘田川の河口を蕪津(かぶらつ)と云います。両岸が丸く囲うその形が野菜の蕪や、二股に分かれた鏑矢(かぶらや)を連想させるところから名付けられたのでしょう。「津」とは、船が出入りする港のことで、中津、多度津、宇多津などこの近辺には地名として定着しています。

 当寺の院号は、釈迦族の国名であるカピラヴァストゥを漢訳した「迦毘羅衛(かびらえ)」院ですが、これは弘法大師のご誕生所である海岸寺の地名蕪津とよく似ているところから名付けられたものです。明治30年の公式文書に「白方村大字西白方字迦毘羅津」とあることからも地名として通用していたことが分かります。

 平安時代初期に勅命を受けて菅原道真らが編纂した「日本三代実録」の貞観六(864)年冬十月十五日の条に「讃岐国正六位上の賀富良津神に従五位下を授く」という記事があります。

 この賀富良津神は当寺の伽藍鎮守神で、明治の廃仏毀釈に遭うまでは一の宮、二の宮、三の宮と称されるかなり大きな神社でした。この賀富良津の神は善通寺境内にも祀られています。二本の大楠の下にある二つの小祠を五社明神と云い、大師が多度郡内五柱の神を伽藍鎮守として奉斎したものです。東寺百合文書抄の天喜四(1056)年の解申に五社明神についての記述があります。

 證成大行事は、現在中村町にある木熊野神社で、社伝によれば、弘仁年間に大師自ら熊野本宮から勧請したとされます。本宮にある證証殿からこのように呼ばれます。
 大麻大明神は、大麻町にある大麻神社で、延喜式内社の一つです。
 雲氣明神は弘田町にある雲氣神社で式内社です。
 塔立明神は碑殿町にある東西神社です。
 蕪津明神は賀富良津神社で、現在は海岸寺境内に小祠のみがあり、ご神体は明治時代に調査官だった松岡氏が持ち去りました。現在も多和文庫内に保管されているはずです。(多和文庫の返答によるとわからないとの事)

 仏教の開祖にも擬せられる弘法大師空海。日本各地に名僧のご誕生寺はありますが、「カピラヴァストゥ」を院号に持つにふさわしい寺は海岸寺をおいて他にはないでしょう。

ゆかりの神社

大師の叔父阿刀大足が勧請または再建したと伝える神社が坂出市にある鴨神社、神谷神社及び丸亀市の垂水神社です。

 甲山の西麓に鎮座する春日神社は旧社号が不明ですが、社伝によれば、大師の伯父に当たる佐伯直道長が弘田郷の戸主であった大同年間に佐伯氏の祖神である天押日命を祀ったのが始まりと伝えられています。

 善通寺町の御館神社は、大師の父田公の屋敷があった場所に祀られていたとされ、現在の場所より南方八町余の処にありました。

 佐伯八幡神社は天平3(731)年に肥前清江という人が創建した古社で、文安3(1446)年現在の八幡山に遷座しました。大師が父の廟を玉垣の中に建立し、両親像を刻んで八幡神と合祀したことから佐伯八幡と称されています。

 熊手八幡宮は、その昔神功皇后が白方村に立ち寄ったご縁で祀られました。弘仁10(819)年、大師は社殿を造営し、ご神体八体と釈迦像一体を安置、嵯峨天皇の勅額を鳥居に掲げました。

 幕末に紀州藩が撰した紀伊続風土記には、「弘法大師讃州屏風浦に御誕生あり。日本の風俗に随ひ、白方村の八幡宮を氏神と崇め給ひ」とあります。

 大師の産土神である八幡神は遠く高野山でも祀られ、半年毎にご神体の熊手を各院交代で供養する「巡寺八幡講」が伝わっています。確かな記録では、萬治2(1659)年に約六十ヶ院が講を組んでいたようですが、現在では十九ヶ院になっています。

大師が本当に生まれた寺へ行け―――ある霊能者の証言

 公刊された書籍で、海岸寺誕生説を肯定的に取り上げたものがいくつかありますが、その中で少し特異な、ある霊能者による体験談を紹介したいと思います。

 大正元年元旦、長崎の信仰深い家庭に生まれた浅野妙恵さんは、二十歳を迎えた頃から指導霊である「弘法大師」のお告げが口をついて出るようになりました。しかし、低級霊に憑かれたと思った家族は、霊を追い払うため、彼女を叩いたり蹴ったりしたそうです。

 思い余った彼女に、「旅に出よ」とのお告げが下ります。風呂敷を片手に家出した妙恵さんはお告げに従って下関へ、さらに「四国へ行け」とのお告げに、どこでもいいからと船に乗り込み、生れて初めての一人旅で「多度津」へとやって来ます。なぜそこを訪れるのか分からぬまま、道中の心細さに涙が止まらなかったそうです。

 夕刻、多度津の波止場で、「弘法大師の生まれた寺へ行け」とのお告げを受け、地元の人に教えられて善通寺へと歩いて向かいます。ねんごろにお参りを済ませると、夜九時を回っていました。旅館に一泊し、女将さんの勧めで、長崎へ帰る前に金毘羅さんへお参りすることにしました。

 長い階段を登り、お参りをしていると、「弘法大師が本当に生まれた寺へ行け」とお告げが云います。昨日お参りしたばかりなのに、と不審に思いながら、一旦旅館に戻りました。

 女将さんから、

「お大師さまは海岸寺でお生まれになったのですよ」

と聞かされた彼女は早速、海岸寺へと向かいます。

 奥の院でお参りしていますと、「この寺に泊まれ」とのお告げ。当時、参拝者の宿泊を受け付けていませんでしたので断られましたが、お告げはどうしてもここに泊まれと云い張ります。

 寺側と押し問答の末、何とか許可を取り付け、それから52日間にわたって、妙恵さんのがむしゃらな修行が始まりました。(当時の住職は先々代高橋霊玉師)

 このうら若き女性は早朝から素っ裸になって井戸の水をかぶり、我流の読経に明け暮れたのです。

 秋風が吹く頃、ようやく長崎へ帰ることが許されます。その後も彼女の修行は続きますが、霊能者として数多くの人々の相談に乗り、ご活躍なされたようです。先代厚温師も妙恵さんにお会いになり、これらの話をお聞きになったそうです。

      ○

 以上、見てきましたように、すべて傍証ではありますが、海岸寺こそ本当の弘法大師のご誕生所であることを感じ取っていただけたのではないでしょうか。結論として、以下のことを申し上げておきます。

 善通寺は大師の戸籍上のご誕生所。
 仏母院は大師のご受胎のご誕生所。

 海岸寺は大師の事実上のご誕生所。

             合掌

参考文献一覧

日本書紀(一、二)岩波書店

口語訳古事記 三浦佑之 文藝春秋

現代語訳神皇紀

訓読日本三代実録 源能有 臨川書店

「迦毘羅衛院海岸寺縁起」「道隆寺温故記」香川叢書第一所収 香川縣

「沙彌本西發願状案」新編香川叢書史料篇2所収 香川県教育委員会

仲多度郡史 香川縣仲多度郡 横田印刷所

善通寺市史 第一・二巻 善通寺市

坂出市史 市史編纂委員会

「弘法大師と白方」高橋厚温

白方村史所収

善通寺史 蓮生観善 善通寺御遠忌事務局

香川縣神社誌下巻 香川縣神職會

讃岐通史 曽川寿吉 上田書店

全讃史 中山城山 藤田書店

真言宗大徳列伝 高見寛應 青山社

真言宗百年余話 今井幹雄 六大新報社

「三教指帰」 弘法大師空海全集第六巻所収 同編輯委員会 筑摩書房

「御遺告」弘法大師空海全集第八巻所収 筑摩書房

四国霊場記集 近藤喜博 勉誠社

「玉藻集」 小西可春 香川叢書第三所収 香川縣

讃岐史要 黒木安雄 宮脇開益堂

説教節 荒木繁 平凡社

「白方聞書」和氣周一 讃岐民俗3、4号所収

「弘法大師の兄弟姉妹について」守山聖真 六大新報1456号所収

「大師の兄弟及母公に就て」井村真琴 六大新報497号所収

「弘法大師の誕生地」福家總衛 

六大新報559号所収

「弘法大師誕生所の典拠」伝燈191、194号所収

祈禱寺 阿刀弘文

弘法大師誕生地の研究 乾千太郎

善通寺

沙門空海 渡辺照宏・宮坂宥勝 筑摩書房

空海 八尋舜右 成美堂出版

空海の風景 司馬遼太郎 中央公論社

空海の風景を旅する NHK取材班 

高野山と丹生社について 和多昭夫

弘法大師空海の研究 武内孝善 吉川弘文館

弘法大師行状記 中村風祥堂

繪入四国八十八ヶ所山開 井上佐七 大阪 明治16年 

繪入弘法大師四国八十八ヶ所山開 石川正七 福岡 明治17年

弘法大師山開 原楳吉 徳島 明治19年

繪入弘法大師四国八十八ヶ所山開 和田庄蔵 大阪 明治19年

弘法大師御山開 釋仁仙 海岸寺 明治34年

弘法大師四国八十八ヶ所山開き 中村淺吉 京都 明治34年

絵入四国八十八ヶ所弘法大師山開 淺野明二 徳島 明治43年

弘法大師御山開 奥野見行 海岸寺 大正7年

御山開 池田竹市 1889

開山壽命章 脇田善松 大正14年

四国八十八ヶ所道開 中村快彰 生木山正善寺 昭和47年

四国八十八ヶ所山開 空音寺出版部 昭和51年

多度津文化財協会報18号 多度津町文化財保護協会

霊界の秘密 浅野妙恵 潮文社

野山名霊集 泰円 名著出版 

大化の改新 北山茂夫 岩波書店

日本婚姻史 高群逸枝 至文堂

招婿婚の研究 高群逸枝 平凡社

埋甕―古代の出産風俗 木下忠 雄山閣

日本人の子産み子育て―いまむかし 鎌田久子他 勁草書房

女性と穢れの歴史 成清弘和 

中世の非人と遊女 網野善彦 講談社

お産の歴史 杉立義一 集英社

弘法大師御傳記 蓮生観善 永田文昌堂

「以呂波物語」近松門左衛門 戯曲弘法大師 高野山時報社

讃岐の伝説 武田明他 角川書店

四国遍路記集 伊予史談会 

弘法大師出生資料カテゴリの最新記事