嵯峨御所教令書(弘法大師出生に対する御文書)

嵯峨御所教令書(弘法大師出生に対する御文書)

「嵯峨御所教令書」
現代語訳  文化13(1816)年

讃州多度郡(香川県仲多度郡)北鴨(多度津町北鴨)明王院(道隆寺)末寺海岸寺は往古、

高祖弘法大師母公の別館の旧跡であり、ご産所あるいはご初誕の霊跡と称して来たことについて、もっとも往古より別段異論など無き処、近頃に至り海岸寺の勧進帳の縁起にご降誕之霊跡としたため、建石などして、船問屋の切出し(道案内チラシ)にも掲載し流布したことについては、同国誕生院(善通寺)に差障りあるとのことで同院よりそのご領庁(丸亀藩)へこれを訴えて差し止めるようにと申し立てがあった。しかるに誕生院は丸亀藩、海岸寺は多度津藩領であり、何分にも右一条は誕生院より明王院へ掛け合ってさえいれば早急に(問題が)縮まったことであろう。つまり争論が手広く及ぶのは好ましからぬことで、藩庁の方で対審決裁が下される前に、明王院は当嵯峨御所大覚寺の末下であり、誕生院は嵯峨御所ご中興の後宇多法皇の綸命を賜ったことがある、かつ五重塔再建についても先々代門跡より勧進の令旨を拝戴するなど、双方ともにご由緒浅からぬことゆえ、(新義真言宗本山)智積院座主能化僧正より藩において是非の裁決を下されるに先立って事穏やかに内済すべきである、とひそかにその意を嵯峨御所大覚寺門跡へ言上があったのである。その厚慮は黙止しがたい。ここに於いて明王院および海岸寺を招致して尋ねたところ、海岸寺は往古より前文の通り霊跡と称し来たり、既に前々国主(生駒氏)より山林濱分のご寄付があり、当ご領候(京極家)からも先規の通りご寄付があった全くのご旧跡である。当時は小寺であったが綿々と相続し仕え、大師の産土神熊手八幡宮の勧請、釈尊の生地カピラバストゥに因む迦毘羅衛院の院号などその由緒の証、因って来ること久しく全く新規の偽証などではない。往古よりの申し伝えや海岸寺縁起、高野山碩学道範阿闍梨の道中記などにもあり、村老はもとより近隣の僧俗なども往古より因縁口碑の伝えるところはよく存じている。ご旧跡の称号を差し止められ一時に空しくなるのでは実に高祖の冥慮の程も恐れ入り、また数代の先住職に対しても悲感痛切の極みであり進退どうすべきか、とのお答えであった。

このことを考慮し、双方相違有無を尋問し、なお又教諭を加えることとした。その大意は、たとえ千年の昔、母公の別荘産屋の所に相違なくとも、既にその父公の本居をもって降誕之所とするのは古今とも異論がないのは勿論であり、ましてや父公の本居は今も当御所ご中興後宇多法皇から恭しくも誕生院という称号を賜わった綸命の霊場であり、その綸旨に差し障るような称号を書き出すということは容易ならぬことである。であるからよろしくその忌憚を避けるべく思惟されたい。もっとも右誕生院よりご領庁へ申し立てのあった「建石、縁起、勧進帳などお差し止め下されば有難く存じ奉り候」というについては、海岸寺の方で近頃取設けた幾つかのものは此度当御所に於いて差し止めることとする、これによって静謐となさんとする格別の思召しである。そうすれば往古より近頃に至るまで異論などなかった以前の姿に復し穏当ということになるであろう。これに加えてなお又和合し穏便となすため、御初誕所、御産所などの旧称書き出しを避けるよう再三厚く教諭の上これを差し止める。そして御出化初因縁之霊跡と称することにせよ。勿論これまでの在来りに従い、綸旨に差し障るようなことは堅く遠慮すべき事。

付け加えて、母公別館旧跡のこと、往古多度郡はほぼ佐伯氏の領地であったであろうから、その別館のことであるが千年の昔の跡を今その有無の論を一時の取調べでは決し難い。特に海岸寺で前々より称し来るように、古人海岸の浦松称嘆し、あるいは迦毘羅衛院の院号、産土神の勧請など口碑の伝えるところ、その由来久しく相見え、これまでいささかも異論などあったとは聞いていない。海岸寺は霊跡であることを以って前々国主から明らかに当御領候に至るまで連綿とご寄付恩恵になる旧境内であれば、容易に取糺すようなことは実に斟酌差し支えの仔細あることであり、これらの事はつまるところ余事であるから、穏慮を加えらるるべきである。それでも申立ることがあるならば、その地所に係わることであるから、ご領候の裁許を仰ぐ事とする。

産盥堂などの事、尋問に及び、なおかつ教諭を加えたところ、これまた往古よりの称号にて新規の筋ではなく前々よりの棟札などがあり、普請造作の節にはご領庁へ願い済みの上にて進止いたし、かつ丸亀、多度津御領候巡郷の節は参詣所にて、触示などにも白方屏風浦産盥堂、熊手八幡宮と書き載せられ、なおまた当御所へ公儀よりの御沙汰にも本来御改之節の書上げにも書き出し来っており、全く前々よりのものであり、これまた異論などない旨答えられている。つまりは近頃前述の勧進などを彼れ是れ取り行ったことに端を発し、当時異論の趣意に聞こえたが、それではと教令を加えたので、いよいよもって近頃まで争論のなかった以前に復した上は双方ともこの上ひとえに和合の本意に随い、別けても丸亀、多度津御領候は本家分家の由緒の間柄ということもありご厄介をかけることのないよう前々通り静謐にいたすべき、との思召しである。

付け加えて、堂舎興隆などの事は専ら御領候の恩恵に寄ることは勿論で、既に前々より今に至るご領法を以って願済みの造作進止の事であって、ご領政に係わることであるから、これまた国方の裁許を仰ぐ事とする。

屏風浦の称号のこと古くから唱え来ったものかは、前々国主寄付状にも書載があり、その外にも古く書き出し来ったように見え、かつ外々の寺院のうちにも近頃新規に屏風浦と書き出した向きもあるように聞いている。勿論地名などのことは専ら御領庁に係わることで、千古の昔の地理は容易に決し難く、なお考えて御領庁へも仰せ入れ品合せもあるであろう。

また弥谷寺あたり前述の建石は最早止めるとしても、その余分は御領庁へも届け済みあるいは施主人によって建てられたものであっても、御誕生所という文字のあるものは差し止めるべきである。尤も地所に係わることゆえ、これ又国表へ通達に及ぶべきで、つまり道標は旅人往来の利益にもなる事であるから、右の文字に係わらぬ分は他外から口をはさむべきものではない。全くもって御領庁ご利運の進止は勿論のことである。

前述に加えて、教令に異論なく以前に復した上は、以前のように在来り御領政をもって済ませ、あるいは地所旧名などにわたり前文御領法にも係わるようなことは当御所に限らず容易に知り難い仔細のある事である。

何分この上和合し穏やかに進退して双方にとって良ろしいようにとの思召しである。殊に御領候の間柄は御領下において此上異論の是非があってはご領庁は勿論本山の方でも好ましいことではない。もとより寺院はご領候の恩恵にあずかるべきところではあるが、ますます謝徳の誠念を励まし、ひとえに近頃の積鬱を散じ、当御所とのご由緒かつ教令を慎み敬い相互に和合すれば、今後異論のあることなく、そうした時には高祖の霊跡冥鑑之著名は自ずから感応があり、人意の外である。

兎に角従来通りに静謐となすべき、との思召しである。和合の上はご由緒浅からぬことゆえなおまた連ねてお示しなどあるであろう事。

子閏八月

右 御教諭の趣旨を畏み奉り承知いたしましたので請印し差上げ奉ります  以上

文化十三年

「弘法大師と白方」  高橋厚温  『白方村史』所収  昭和30年  

 遠方の人によっては、白方という地名よりも海岸寺という名前の方がよくうなずかれることがある。それほど白方にとっては海岸寺の占める位置は大きいといえよう。そして海岸寺といえば「お大師さまの誕生せられた所ですね」といわれるが、四国八十八ヶ所霊場を遍路する者をはじめ大師信者や庶民の間にあつては、海岸寺を弘法大師の誕生地と信じている者は非常に多いことである。

 海岸寺のみにとどまらず、白方には誕生地とも言われるだけに、熊手八幡宮をはじめ、仏母院大師母公御住居跡など弘法大師の遺跡や伝説は少くない。ここに弘法大師と白方について、更に誕生地として善通寺との関係を少い頁数を借つて見ていきたいと思うものである。

 大麻山の古墳と共に、白方の山地もまた色々の出土品が発掘されることによつて、古くから開かれていたであろうことは一般に認められている所である。古くから開かれていたということは大化改新の時、東讃の屋島軍団(牟礼軍団)、中讃の城山軍団(阿野軍団)と共に白方の地に天霧軍団(白方軍団)がおかれたことによつてもうなずかれる。(讃岐通史、改新時代の項参照)

 昔、海岸線がぐつとさがつていて善通寺辺まで海であつたという説を唱える人も出来ているが、那珂郡の津であつた中津、多度郡の津であつた多度津という海岸線を考え、白方は加富良津という地名の古くからあつたことを考えると、白方も相当古くから海岸線であつたことが想像され、全く海の底であつたなどということは考えることもできない所である。海岸線が今よりは幾分かは下つていたとしても、現在、海岸寺本坊のある所は、古く天の小橋立と言われ(仲多度郡史、白方の浜の項参照)、鳥の嘴の様にずつとつきでていたことは今なお山より見ると明らかに名残をとどめ、明治以来の津波の折にも、本坊の辺だけは、浮き島のように波から残されてきたことである。そして、本坊のある所に、昔、賀富良津神社、一の宮、二の宮、三の宮があつたのである。(郡史、賀富良津神社址の項参照)

 また、神功皇后が三韓征伐の帰途、この地に立ち寄られ、村人への記念として熊手(一種の武器)などを残され、因つて村人はここに八幡神を勧請して宮を作り、熊手八幡としたという記録や、横尾時蔭の伝説に、都人、兼秋が伊予下向よりの帰途、この地に寄つたということ、そして大師も上京の折、ここより船出したといういい伝え等より想像すると、加富良津は、昔、港(郡史、十四橋、白方浜の項参照)として栄えていたとも考えられるのである。

 こうした点よりして、白方の地は、昔より開け、少くとも海底ではなかつたことは断言ができるのである。

 その後、栄枯盛衰を重ね、横尾時蔭の伝説を生んだ建武、室町時代より江戸時代にかけて、戯曲(伊呂波物語)などにより、屏風浦は風光明媚の土地として喧伝され、更に、「玉藻よるてう讃岐潟屏風浦に誕生し」という大師和讃が庶民の口にのるのに及んで白方は屏風浦として名高くなり讃岐名所図絵などに載せられ、多く、白方或は白方屏風浦(玉藻集)とつづき名でよばれてきたのである。(屏風浦については、郡史、屏風浦の項。三代物語。讃岐名勝図絵。西讃府志等参照)

 後にのべる誕生地問題に関する訴訟の証言の中にも「屏風浦は白方屏風浦といわれ、古い納経帳をみるのに、海岸寺のみ屏風浦と記し、善通寺をはじめその附近の寺院の納経帳には屏風浦という記載はみられず、最近になつて屏風浦と記しはじめた」(海岸寺蔵、御尋口上覚書)と記されているが、地形上、いろいろの点に於て、白方こそ屏風浦という名がふさわしいことは、誰しも認めないわけにはいかないであろう。「あまぎりあい、ひかたふくらし」という万葉集の歌をひいて、白方の地は昔、全く海の底であつたと言おうとしている人もあるが、ここに「あまぎりあい」というのは、当地にある天霧山をさすのではなく、それは枕詞であつて、その実、九州地方の歌であることは明らかな所で、とるにたらない愚論と言わなければなるまい。

                            (仲多度郡史、水茎の岡項参照)

ともかく、こうして古くから開けていたであろう白方には、弘法大師については、色々のゆかり深い遺跡と伝説を残している。

 その一つは仏母院である。

 仏母院は、大師の母公、阿刀氏玉依御前の住まれていた所より名づけられ、別名を三角寺というが、それはミスミ即ち御住になぞられたものであり、今なお、御住屋敷とも言われておりその門前に、弘法大師の御胞衣(へその緒)を埋めた塚、御胞衣塚というのがある。

 次に、熊手八幡宮は、弘法大師御懐妊に当たつて、大師の母公が、常に御祈願なされたと伝えられ、古来、弘法大師の産土神と言われている。そして、弘法大師の神仏習合の思想(神と仏は幹と根のようなものであり、神には必ず本地仏というのがあるという考え)によつて、高野山にも大師の氏神を勧請しようとするのに当つて、熊手八幡宮より、白旗熊手などを迎えて祭り、為にその神社を白旗八幡宮と名づけ、またその本地仏を寺々が巡々に祭つたところから巡寺八幡とも言われたということが、(紀伊国名所図絵、巡寺八幡神幸図。高野山巡寺八幡宮の記)にもあることよりして、昔より弘法大師の氏神として崇められていたことがわかるのである。

 また、現在の西白方、弘田川下流に十四日橋という橋があるが、それは、大師が幼い時海岸寺に勉学中、必ず、毎月十四日に、この橋を渡って、母公を訪ねられ、また、八幡宮に参詣した故にそうよばれている。

 さらに、仏母院の東北二丁ほどの所に童堂というのがあるが、それは、弘法大師がお幼い時、泥土を以て、仏像を作って遊ばれた旧跡であるといわれている。

 その他、仏母院の東方一丁ほどの山麓の虚空蔵堂、奥白方にある虚空蔵寺は、弘法大師が求聞持の法を修行せられた所といわれ、勅使が仏像を作って遊ばれている幼い大師を見て、思わず、駒を止めたという駒止の岩や、弘法大師が一石一字の法華経を書写してその頂に納めたという経納山、弘法大師の産盥を安置した産盥堂があったという御盥山、そしてその山上には弘法大師が如法経を納めたという七重塔があり、高野山の高徳道範阿闍梨の南海流浪記に「金堂の西に一つの直路あり、1町七尺ばかりなるは寺中より誕生所に参る道なり、即ち参詣して之を拝するに正しく御誕生所には石高く広く畳めり今如法経奉納の七重の石塔これあり」とあるのに或は関係があるのではないかと思われ、駒止岩の辺にある筏岩は昔の桟橋であって弘法大師も常に此の筏岩から乗船せられたといわれ、また玉藻集に「産盥石」として「「弘法大師多度郡白潟屏風が浦に生れ給ふ。産湯まいらせし所、石を以て其しるしとす」とあるが、その産盥石といわれるもの、同じく玉藻集に人物を書き挙げた中に「和気善通 多度郡白潟ノ邑ノ人。弘法大師ノ父」とあることなど弘法大師にちなむ伝説はここ白潟には非常に多い。

 こういう色々の遺跡や伝説をとどめた白方は一名、屏風浦として、江戸の初期より、信仰的にまた観光的にことのほか喧伝されはじめ、時代が下るにつれて、愈々強くなり、為に、とうとう江戸の末期になっておこつたのが、善通寺と誕生地の名称争いである。

 文化年間のこと、江戸時代庶民文化の栄えにつれて、庶民にも親しまれる小冊子が発刊されるにつれて、弘法大師に就ての伝記なども多くなつたのであるが、その多くが、白方屏風浦が大師の誕生地であることを示し、海岸寺は愈々名高くなり、時の住職快道は、この時を期して、海岸寺の再興をはかり、産湯井、産盥堂等をより立派にしようと寄付の勧募につとめるなど大いに海岸寺の名を喧伝したのである。そこで、海岸寺と同様、誕生所の名を伝えている善通寺はこのことを不愉快に思い、海岸寺が屏風浦と名のり誕生所ということを撤回するようにと領主へ訴えたのである。

 ところが、海岸寺は多度津領であり善通寺は丸亀領であり、両領主は本家・分家の間柄であるために、両者とも一方的に解決することが出来ず遂に当時寺院のことを司つていた嵯峨御所へその裁断をゆだねるようになつた。

 然し、嵯峨御所としても、宗教家がこうしたあらそいをすることをよく思わず、一方的に決することを長い間ためらい、むしろ、海岸寺も誕生所と名のることの内諾を示した形であつた。それに驚いた善通寺側は、更に、江戸幕府の寺社奉行にも手をのばし、撤回することをきつくせまつた為、最後に次のような裁決状によつて、一応の結末をつげたのである。即ち、

  「海岸寺は、弘法大師のの母公の居られた所であり、大師が誕生せられた所に相違はないけれども、善通寺は父公の居られた本宅でありこれも誕生所であることに違いがない。しかも、善通寺を誕生所と認めないことは、天皇のお言葉にさしつかえるから、今後、善通寺を誕生所とし、海岸寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称えるように。」(御理解書)

 こうして、誕生所と名のることもさしとめられ、産井、湯手掛松の建札、屏風浦という道案内などの建石、雪洞等を取り払わせ、更には住職快道は罷免せられ、その他こうした名のつくものの一切を破棄するように命ぜられたのである。

 弘法大師誕生地について、ここで色々考えてみるのに、大師御自身の著作である三教指帰には「櫲樟日を蔽うの浦」と仰せられてある所からすると、とにかく浦――即ち海岸――であつたことは否定することはできず、また、弘法大師誕生会式に、「其の郷は櫲樟日を蔽うの浦――五岳南に聳え、百川北に瀉ぐ」という所から考えると、五岳が西に聳え、またこれという川もない善通寺は不適当と言わなければならず、その点、白方は、五岳がちょうど南に聳え、現在の弘田川が、昔はかなり広い幅をもつていたとして、その川がちょうど北にそそいでおるのであり、よく適合していると言えよう。また浦というのは、一理あまりも海岸をへだたつている善通寺にくらべて、風光明媚な海岸に沿う白方はよく屏風浦という名に相当するところであろう。

 然し善通寺もまた、昔より誕生の地と称えられているとするならば、やはり何か因縁があつたのに違いなく、想像するのに、善通寺は、父公の邸宅跡であり、いわば大師にとつては本籍地に当り、昔は夫婦同居せず、夫は女のもとに通つていた風習のあつたところから考えると、白方はその奥方つまり大師の母公の居所であり、また佐伯氏の別館でもあつたのではないかと思えもする。であるから、海岸寺の霊跡名として、日東初縁場(別所栄厳大和尚署名)、大日本真言根本霊蹟(納経印)、大師出化之地(雲石堂寂本大和尚署名。晃親王御染筆)、大師修学之地(全讃史)、高祖大師御母公之旧跡御産所(御理解書)、大師初誕之霊蹟(海岸寺彖起)などという典拠と共に、佐伯氏御別館之地(海岸寺彖起)という名前があるのである。

 保延年間に誌された海岸寺の縁起に、

  「その所以を尋ね奉るに、御母公、殊に此の浦の風景を愛し給うにより、海岸に別館を構えて時々御遊覧あつて、波による玉藻をめで岸に生る松陰に宿らい給う頃しも水無月中旬の御産なれば、此の別館に而年を炎暑を凌せ給ふ験に安らかに御誕生ましましける云云」

とあるが、一つには、鵜萱不葺命うがやふきあえづのみことの伝説にもあるが、出産をけがれとして本邸ではこれをさけ必ず産屋を設けた古代の風習よりして考えても実際に出産なされたのが白方の土地であつたと言えるのではなかろうか。勿論、母公によつて出産されることであるから、父公の居所よりも母公の居所こそ、実際の出産地と考えてもよかろう。

 こうしたことから、公的には善通寺をその戸籍地とし因つて誕生地とも言い、一方、実際に出産せられた所として白方もまた誕生所としての名が昔から言い伝えられたと考えるのも当を得ていると言えよう。

 一時「堂舎の建立を盛んにし七堂伽藍、楼閣を列ね、四十九坊の寺院を並べ」と言われた海岸寺も度々の火難にあい、栄枯盛衰が甚だしくその度に寺宝を失い、殊には、明治二十六年、海岸寺奥ノ院御盥山七重の石塔下の岩窟から沢山の仏像、仏具を発掘したのも、それを阪神等各方面に開帳中、監督者間の紛乱や不始末によつて多く散失し、更に大正五年三月、また火を発し、堂宇を全焼したことのため、それらも現存するものが少ないことなどは、その発掘の時代が新らしいだけに惜しまれてならないものである。

 それはともかく、大師の誕生地が何処であるにしろ、大師の徳を仰ぐのには何も関係のないことで、そうしたことで争う事は却つて大師の徳を損うものにしかすぎない。然し今白方村史編纂に当つて、現在、人々の口にのつている事実や、遺跡等を書きとどめる必要はあろうかと思うままにこれを誌したわけである。

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