福岡県京都郡椿市村、奥野鉄之助は日清戦争の時、志願して下士官となり、蒸気船の艇長になりました。朝鮮警備隊林全権公使に従って諸方偵察中のこと、元山にて左手がしびれた上、寒気におかされた為に血液不順となり、右手と両足の自由がきかず、佐世保海軍病院に一年六ヶ月入院していましたが、遂には不治の病気となりまして、免官されてしまいました。
その後も福岡病院・豊後温泉・俵山温泉等、八ヵ月以上療養につとめましたがやはり、その効はありませんでした。
三十九年十二月、行者に誘はれて信心の道に入り、箱車を作り、十二月十四日故郷を出て豊後温泉に六十日滞在し、明治四十年二月二十一日、伊予八幡浜に上陸して、妻ヨシノとせがれの両人に箱車を引かせて、四国巡拝をはじめ、お四国を六回ほど巡拝しましたが、七回目の途中、海岸寺の奥の院にきて、箱車をたくさん納めてあることに感激しまして、一心にお大師さまにおすがりしようと決心しました。妻子とともに三日三夜、お百度を踏んで信心をつくし、光明真言をとなえた回数は、米粒にして数え二升六合あまりあったと申します。
なお御籠りを続けて、明治四十三年旧三月八日午前十一時二分に通夜堂の南のえんに腰をかけ、足を延ばしてみますと不思議にも足のかがまりは離れて、延ばすことが出来るようになりました。
そのお礼の為に、信心のかたわら、堂守をして十有余年の間よく勤めまして後に出家得度して見行と名付け、又、妻も発心して得度いたしまして尼となり恵香と名付けまして、堂守として永くお寺に奉仕いたしました。
福岡県京都郡椿市村 奥野鉄之助 僧名 見行
同妻 ヨシノ 尼名 恵香