花代のこの病は、どうもタタリではないかと思われます。
それは、兄嫁の里方が貧しくて毎日の暮らしにも困っている有さまでしたので、それをみかねた私は、皆に内密で米・麦・豆のようなものを仕送りしていたのですがそれを知った花代が、母に告げ口をしたのです。母はそのことを兄に話しました。それがもとで兄嫁は離縁になってしまったのです。
兄嫁は花代さへなくば離縁されなかったものをと、花代を恨みまして、ある神さまにお頼みしたらしいのです。
恐らく、その神さまの眷属が花代に障ったのでしょう。それで目がみえなくなったのではないでしょうか。
目がみえなくなった花代は、医者よ、行者よといろいろ手を尽くしたのですが、いっこうにききめがありません。後には出雲大社に、五・六十円もの大祈祷を二・三度お願いしたり、同じく出雲の一畑薬師さまに一年もの長きお籠りをしたのですが、何の甲斐もありません。
しかたなく我家に帰ってからはもう家人とも口をきかず、いつも部屋の隅にすわったまま、何やら考えこんでいる風でした。後から分かったのですが、どうもその時お四国へお参りしようと決心し、その方法をあれこれ考えていたのでしょう。
無断で我家を出た花代は、尾道町のある寺をたよって、そこで納経をこしらえ、仕度をして舟に乗りこんだのです。その舟の中で、運よく出雲の遍路と心安くなりまして、当海岸寺の奥の院の方へともなわれて参詣いたしたのです。
それはもう夜の十一時頃だったといいます。
その夜はお通夜をして、一心にお大師さまを拝みました。
その明くる朝、障りものは、うそのようにおちたのです。おちるのと同時に目が見えるようになりました。ただの一夜の――一夜のお通夜で目が見えるようになり、その翌日より新聞の字も読めるようになったのです。
大正八年正月九日
広島県 山崎花代 (二十五才)