屏風浦海岸寺の公式ホームページ◇別格霊場第十八番|四国不動第三十一番|

 

霊験譚

 

霊験譚

霊験譚
 
海岸寺の霊験譚

 信仰とは何なのでしょう? 信心とはどうあるべきものなのでしょうか? また、どのような人々が四国遍路の“死出の旅路”へ出て行ったのでしょうか。一昔前の信仰者の姿を通して、遍路とは一体何なのかを考え、あるいは旅の途中で行き倒れ、無念にも散っていった人々の思いを、思いめぐらせてみるのも我々にとって大変益のあることです。
 観光を兼ねた遍路行もそれなりによいものですが、本来の遍路のあり方というものを忘れてしまってはいけません。
 ここに海岸寺に伝わる霊験譚のいくつかをご紹介し、信仰の縁(よすが)といたします。

      足立の霊験

 讃岐国屏風ヶ浦海岸寺は、弘法大師の御出化初因縁の霊跡でございまして参詣、又参詣する人々が誠に多く、不思議の御利益を頂く人が数多くありました。
 ここに、ありがたき、御利生を頂きましたのは、讃岐国大川郡引田村、森川市造という人で、四歳の時、盲人となりまして十一歳の時より三味線の稽古をし、廿四歳の時、九州福岡の演劇場に雇われ七日目に火災にあい、目が不自由のこととて周章狼狽いたしまして遂に火中で両足をやけど致し足が立たなくなってしまいました。
 それより八年の間、苦心しながら、所々を巡礼して明治十五年五月十日の夜、箱車で当寺へ参詣され、一心に参籠して信心いたしましたところ、はからずも、ありがたく御利益を頂くことになりました。
 その夜、夢に僧とおぼしき御方があらわれまして、一本の杖を給はり、
 「この杖に頼って、歩行しなさい」
とのおつげに、ありがたやと思い、また、
 「本復の後はこの杖を持主へ必ずかえしなさい」
と聞かされると同時に夢はさめました。不思議に思いつつも、この杖にすがって立ってみますと、両足とも自由に歩むことが出来まして誠にありがたき霊験を頂き感涙にむせびました。時は明治十五年五月十一日、寅の上刻でありました。
 翌日、傍人にその杖の持主をたづねようと思い見せましたところ、名東村田宮村百九十四番地、阿部氏 モ、裏に明治十五年一月吉日としるしてありましたので、田宮村村長殿あてにたづねました所、戸長より該家へ聞き合わせてくれ、杖の由来を報答してくれました。
 それによりますと、阿部氏は本年正月廿日に、四国の霊場第十七番妙照寺へ、参詣の時に置忘れたものを、いづれの人かが携へて行ったものを授かったのでしょう。
 そういうわけですから、夢告げの通り、そのありがたい杖を持っておかえしに行きますと、阿部氏は、当寺へ参詣の為に出発したあとで行違いになり会はれず、又持帰りたづねましたが行くえがわからず、思案にくれています時、夢ともなく、琴平におられるを感じて、早速、琴平へたづねて行き、面談して杖をおかえししますと、誠にもったいない霊験の杖ですから、屏風浦海岸寺へ奉納しましょうと又持ちかえりまして、箱車と共に当寺の奥の院へ奉納いたしました。
 霊験を受けし者、讃岐国大川郡引田村、森川市造、三十二歳
 霊杖を寄附した者、徳島県名東郡田宮村、阿部茂三郎
 額を奉納した者、徳島県佐古町、大住作平
 霊験記を書いた者、徳島県佐古町、柴田七五三
 明治十五年十月吉日
 右の噂が世間に広がりますとその霊杖を、拝見しようと、参詣する者が誠におびただしく、その後、又霊験を頂いた方々を記しますと
 山城国淀の木下友吉
 作州津山の七十あまりの老女
 いずれも不自由な足が立ちました。
 三河国会生町、日高忠造の伜(せがれ)又吉は衆医にみはなされた盲目の者でありましたが、御利益を頂きまして眼があいたということです。
 その他この霊杖によって霊験を受けた人は数多くありました。


     夢の中で僧がお告げを

 香川県那賀郡買田村大字買田、高井数十五歳は、明治二十七年の頃に大阪天満の米売店方へ奉公致しておりましたところ、同三十年五月に足の病にかかり歩行が困難となりました。大阪の病院で三ヵ月程治療を受けましたが、いっこうによくなりません。年の暮れに故郷へ送り返されまして困っていたのを見かねた琴平町や善通寺村の有志の方々の慈善を受け、この箱車を新調してその年旧二月二十日、当山屏風ヶ浦海岸寺奥の院で、四方の皆さんの助力を受け当山を信仰致しておりました所、不思議なことに旧三月十三日の夕方に或る僧が来て言われました。
 「当山を信ずれば必ず霊験があります」
と言われ、もと来た道を帰りました。それはその夜、九時頃に一睡を催した時の夢でありました。
 アラ、ありがたい天にも登る心地のする霊夢であったと夢さめて思い、早速、車よりはい出で、拝殿にて百拝しまして、又車で帰って寝ました。翌日十五日朝、お大師さまのお蔭を頂き、両足は全快して歩行出来る身となりましたので、箱車を当山へ奉納して、額を掛ることになりました。
 明治三十一年旧四月


     お礼に奥の院奉公

 福岡県京都郡椿市村、奥野鉄之助は日清戦争の時、志願して下士官となり、蒸気船の艇長になりました。朝鮮警備隊林全権公使に従って諸方偵察中のこと、元山にて左手がしびれた上、寒気におかされた為に血液不順となり、右手と両足の自由がきかず、佐世保海軍病院に一年六ヶ月入院していましたが、遂には不治の病気となりまして、免官されてしまいました。
 その後も福岡病院・豊後温泉・俵山温泉等、八ヵ月以上療養につとめましたがやはり、その効はありませんでした。
 三十九年十二月、行者に誘はれて信心の道に入り、箱車を作り、十二月十四日故郷を出て豊後温泉に六十日滞在し、明治四十年二月二十一日、伊予八幡浜に上陸して、妻ヨシノとせがれの両人に箱車を引かせて、四国巡拝をはじめ、お四国を六回ほど巡拝しましたが、七回目の途中、海岸寺の奥の院にきて、箱車をたくさん納めてあることに感激しまして、一心にお大師さまにおすがりしようと決心しました。妻子とともに三日三夜、お百度を踏んで信心をつくし、光明真言をとなえた回数は、米粒にして数え二升六合あまりあったと申します。
 なお御籠りを続けて、明治四十三年旧三月八日午前十一時二分に通夜堂の南のえんに腰をかけ、足を延ばしてみますと不思議にも足のかがまりは離れて、延ばすことが出来るようになりました。
 そのお礼の為に、信心のかたわら、堂守をして十有余年の間よく勤めまして後に出家得度して見行と名付け、又、妻も発心して得度いたしまして尼となり恵香と名付けまして、堂守として永くお寺に奉仕いたしました。
 福岡県京都郡椿市村 奥野鉄之助 僧名 見行
           同妻    ヨシノ  尼名 恵香


     カンの虫

 私の娘はヨシノと申しまして、本年十五歳になりますが、生まれつきカンが強く、五歳の時、それがもとで精神病になってしまいました。
 その時以来、諸々の医者・薬・灸やと、できうる限りの手を尽くしましたが、もはやお大師さまにおすがりする外ないと、決心致しまして、お四国巡拝に出ました。
 そして大正二年の四月に、この屏風浦に参詣致したのです。ここの奥の院さまにて、お籠りさして頂くこと、廿一日、その間毎日千度礼拝し、米一粒につき光明真言を一反、それを毎日一万反お唱え申して、その米を娘に食べさせていました。その甲斐あってか、真にありがたきご加護を受けることができたのです。
 娘のカンの強さもおさまり、次第に正気づきまして、今ではほとんど全治と申しましてもさしつかえなくなっております。
 この御礼に写真を納めさせて頂きます。
 大正二年五月吉日
 福岡県朝倉郡安川村猶原
 本人 武井ヨシノ (十五才)
  母 武井マツヨ


     白飯を頂く

 私は大病にて医者にも見放された者です。
 今、私はこのやるかたなき身を、お大師さまの道でありますお四国に、預って頂いておりますが、この苦労も後わずかです。今の私には前途に希望がみえるのです。
 といいますのは、無事お四国巡拝廿一度の大願を成就しました私の体は、ありがたき仏さまのご利生によりまして、次第に快方に向かっておるのです。全快も真近であると実感しております。
 私のお四国巡拝は、七度目より一言も口をきかぬ無言行で、三度の水行、さらに一日一食にて拝礼することを常としていました。
 そんなある日のこと―――といいましても充分なお金を持って出たわけではありませんから、お接待にもれては宿を得られず、一日二食にも事かく有様でした。こんな日はさして珍しくもなかったのです。
 その日も、やはり接待にもれまして、伊予の三角寺より下山中、もう陽が暮れ空腹のまま夜を明かすことになりました。
 その翌朝のことです。あたりには人の気配もありませんのに、なぜか、飯器にでえきたての白飯を盛ったお接待があるのです。私は不思議に思いながらも、その飯をありがたく頂きました。
 それがほとんど食べ終わった所で、またもや不思議がおこったのです。またいつの間にか、その飯器が一杯になっているではありませんか。
 私は、つくづくご霊験の不思議を味わせて頂きました。この不思議の飯器につきましては、その後夢にて“屏風浦の海岸寺に納めよ”と告げられましたので、ここに奉納に参った次第であります。
 この持参された飯器は、海岸寺住職がかつて亡失した古物であったのです。
南無大師遍照金剛
 明治十七年六月五日
 山口県吉敷郡深浦
 中川利吉 (三十三才)


     タタリ返し

 花代のこの病は、どうもタタリではないかと思われます。
 それは、兄嫁の里方が貧しくて毎日の暮らしにも困っている有さまでしたので、それをみかねた私は、皆に内密で米・麦・豆のようなものを仕送りしていたのですがそれを知った花代が、母に告げ口をしたのです。母はそのことを兄に話しました。それがもとで兄嫁は離縁になってしまったのです。
 兄嫁は花代さへなくば離縁されなかったものをと、花代を恨みまして、ある神さまにお頼みしたらしいのです。
 恐らく、その神さまの眷属が花代に障ったのでしょう。それで目がみえなくなったのではないでしょうか。
 目がみえなくなった花代は、医者よ、行者よといろいろ手を尽くしたのですが、いっこうにききめがありません。後には出雲大社に、五・六十円もの大祈祷を二・三度お願いしたり、同じく出雲の一畑薬師さまに一年もの長きお籠りをしたのですが、何の甲斐もありません。
 しかたなく我家に帰ってからはもう家人とも口をきかず、いつも部屋の隅にすわったまま、何やら考えこんでいる風でした。後から分かったのですが、どうもその時お四国へお参りしようと決心し、その方法をあれこれ考えていたのでしょう。
 無断で我家を出た花代は、尾道町のある寺をたよって、そこで納経をこしらえ、仕度をして舟に乗りこんだのです。その舟の中で、運よく出雲の遍路と心安くなりまして、当海岸寺の奥の院の方へともなわれて参詣いたしたのです。
 それはもう夜の十一時頃だったといいます。
 その夜はお通夜をして、一心にお大師さまを拝みました。
 その明くる朝、障りものは、うそのようにおちたのです。おちるのと同時に目が見えるようになりました。ただの一夜の――一夜のお通夜で目が見えるようになり、その翌日より新聞の字も読めるようになったのです。
 大正八年正月九日
 広島県 山崎花代 (二十五才)


     眼の霊験

 私はずいぶんと長い間、眼を患い、ご霊験をうけし前は、ほとんど失明の状態でございました。
 このままでは、夫の世話どころか、自分のことすらままなりません。
 私は自分のこの身の有様を憂えて悶々として日々を送っていました。そんな時です。私は故郷からの便りをききました。きいたといいますのは、その手紙を夫によんでもらったのです。かいつまんで申しますと、私の眼のことを知った故郷の父母が、ご霊験あらたかな海岸寺奥の院のお大師さまへ願をかけて月参りをしているから、お前のほうでもやれということだったのです。
 海岸寺といえば、幼き頃、父母に連れられて何度かお参りにいった寺であります。閉じられたままのまぶたの奥には、その境内の様子がありありと思い出されてきます。
 私は故郷の海岸寺さまの方へ向き、毎日毎日この遙かなる朝鮮の地より祈願をこめていました。
 するとどうでしょう。ご利益むなしからずして全快したのでございます。真に有難うございました。
 御礼として真鍮製蝋燭立一対を持参奉納致します。
 大正十二年二月廿日
 朝鮮京城府宮井洞一番地
  李王職庶務課勤務監守
    田淵増太郎妻 はる


     霊夢により足が立つ

 福岡県筑紫郡堅粕村大字比恵百五十番地、神藤タネ(明治六年生まれ)は、廿四歳で初めて男子を出産しましたその月より手足が急に不自由になりました為、医者、もみりょうじ、その他の手をつくして治療にあたりましたが、その効なく、しかも家が貧しく、自力で四国八十八ヶ所を巡拝することが出来ずに困っていましたところ、その姉でサキという者が同村の要福市の妻となり、夫婦の中に子供が二人もありましたのに、家財を売り払い、箱車を作り、残るお金を旅費とし、夫婦と二人の子供を連れ、手足が不自由になったタネを箱車に乗せてひき、巡拝に出発しました。
 予州八幡浜に渡り伊予一円を巡拝し、三津ヶ浜まで来て旅費を使いはたし五人とも食事も出来なくなりましたので、三人で協議の末に、夫福市は五歳の子供を連れ故郷にかえることになり、姉は夫に別れ子とはなれ、一歳になる男児は背い、箱車をひき、途中で箱車が破損して一歩も進むことが出来なくなり、困っています時に、おりよく行きあわせた四国巡拝のお遍路にも援護をお願いし、平地は姉が子と足の不自由なタネの二人を背負いなどし、又かろうじて峻嶮をもこえ十里の道を進み、ついに本年旧二月の中旬頃、当県三豊郡豊浜町大字和田浜に来ることが出来ましたのは、お大師さまの加護と言うほかありません。
その時、豊浜村の有志者は、これを憐れに思いまして、同情し、同村の南村和次郎、合田長平、新田米造、石村栄助、同村鍛治屋、横門安太郎、横山幸次郎、大字大野原村三軒屋、藤田常吉、熊谷宗太郎、藤田善兵衛等が発起世話役となり箱車を新しく作り、又幾分かの旅費も与え、白方屏風浦海岸寺奥の院が、弘法大師の霊験あらたかで、これまでに幾人となく、難病患者が御加護を頂いていることを教え、世話人達のすすめで屏風浦海岸寺に来まして、参籠いたしましたのは旧三月四日でございました。
 其日より昼夜怠ることなく信心の道をつとめ、姉は奥の院の裏山四国八十八ヶ所を昼夜二度づつ巡拝し、或る時はお百度まいりを踏み、人々が感心いたしますほど信心いたしましたので、そのご利益があったのでしょう。旧四月十八日の夜、夢の中で一人の僧があらわれまして
 「汝の病気は必ず全快することまちがいなし」
と告げました。
 霊夢より覚めた時、七年の間身体が自由にならなかった妹タネは箱車から出て杖にすがりながら、大師堂宝の石垣の所まで歩いて行くことが出来ましたことはお大師さまの御利益のお蔭と、満足と悦びの心にひたりました。
 これを見ていた他の数人の参籠者もいっそう信心につとめたとのことです。
 明治三十六年


     お大師さまが現れた

 昭和六年四月吉日、高松市今新町谷本スガ他同行四人打ち連れ四国巡拝の途に出で、同月二十一日当海岸寺屏風浦に詣で無縁の佛の供養をなし一心に礼拝中、突然谷本スガの眼前に白雲立ち込み忽ちにして大師の御尊像現し、驚きて同行の袖を引き其の霊験あらたかなるを拝し奉りたる事、日一日として忘れ難く、之を紀念すべく当時の情況を謹写し奉納いたしたり。
  (奥之院大師堂奉納額より)


     罪の報いもお蔭をいただく

 私事昭和廿六年五月五人目の子供を妊娠、老親をかかえての貧しい生活を苦慮いたし中絶用の薬品を二度服しましたが、生命力強く翌年二月末に三男栄治を出産、然し心身弱く日夜に悩まされつつも自分が蒔いた罪の報いと思いひたすら子供の成長を神仏に祈りおりました。
 十才の春、四国巡礼の方より海岸寺に連れ行き母子共々にお大師さまにおすがりせよと教えられ、海岸寺に参詣なにとぞ元気な体を智慧を授け給えと一心にお祈り申しました処、帰宅後目に見えて元気になり讀み書きさえも覚えてくれるようになりました。
 これもひとえにお大師さまの広大なお慈悲のお陰と家内一同御恩を喜び、お大師さまをお祭り致し信心致しておりました処、
 今度は二女浦子が十五才の夏交通事故にあい、三島市加地病院にて右手首より切断せねばならぬと言い渡され、一同悲しみにくれておりました。
 其の夜お大師さまが夢に現れ切断せずになおしてやるとのお告げを被り、翌日院長さまも驚かれます程に快くなりており、切断せぬまま全快致しました。
 本当にありがたいことでございます。
 此のありがたさを私一人の胸に納めておくにしのびず、ここに多くの方にお知らせ致し同じ苦しみ方々にお大師さまにお参りなされることをおすすめ申すと共に、若き日の過ちをお聞き戴きせめてもの罪ほろぼしと致し度く存ずる次第です。
 昭和四十四年五月十六日
 愛媛県宇摩郡土井町
 江口トミエ 五十才
    浦子
    栄治 十七才


     お籠り一ヶ月で歩けるように

 私事は去る昭和三年拾参歳の初夏より不図脊髄病に罹り高松の赤十字病院に入院致しましたが、軽症で有りました為め二ケ月餘りにして退院する事が出来ました所が、其の秋家事の手伝いをしたのが原因で再発し起る事も出来無い重病と成りました。此度は全快の見込み覚束なく此の上は神仏におすがりするより他に致し方なしと悟りましたので、自動車と人の背を借りて漸く此の奥の院へ辿り付き、お籠りをさせて頂く事と成りました。其して毎日御加持をして戴き一生懸命に心信して居りましたが、三日目に始めて立つことが出来、約一ヶ月程にして自由に歩行する事が出来る様に成りました。是れ偏へに御大師様の慈悲の御利益と深く喜んで謹告する次第であります。
 昭和五年四月十五日
 香川県三豊郡比地
 細川千代子
南無大師遍照金剛


     身代り肌守り

 丸亀十二聯隊、小川大尉の部下分隊長芥数雄(丸亀市塩屋町、二十八才)は日支事変、昨年九月七日・八日・九日の罷店鎮の戦に際し敵の砲弾三四尺前に落ち、為に倒れたり。しかるに夢の醒めたる如に起き上がりて見れば、我が分隊に人影はなく、ただ森戸君(仲多度郡七ヶ所村出身)と二人のみ無事なりしは不思議に絶えず。調べてみれば懐中にありし海岸寺の肌守りは真二つに割れてあり。此の御守りが身代りになってくれたのであろう、ありがたいと感謝。
 その後、交代休養で帰郷中、昭和十三年九月廿四日夜、再召集に接し、翌日、海岸寺へ再度、お守り様を受けに来詣。その折、この事実をあかされたるなり。
 時に、昭和十三年九月二十五日

 

現代の霊験

現代の霊験
 


 


 

 

現代の霊験



 

岡山県上房郡 丸○高一様(大正四年生)

「日本巡礼記集成 第一集」より 弘法大師空海刊行会 昭和六十年

 

 

 

 私は大正四年生れで七十歳。私の家は、代々浄土真宗です。しかし私は世の中の人々のために、我が身を犠牲にされて偉大な足跡を残された開祖の方々の教えを、宗派に関係なく、折にふれて勉強しております。

 

 なかでも弘法大師さまは、幼少時より仏法に目覚められ、想像を絶する難行苦行の数々のすえ、全国各地にありがたいご霊跡を遺され、現在も、悩み多き私共衆生を温かくお導き下さっておられます。

 

 とくに四国八十八ヶ所は、心の病、身体の病に悩む人々をお救いになるため、ご自分でお歩きになられ、開創された有難い修業の道場でございます。

 

 私は今から四十年前の終戦直後、私と私の弟の難病が動機で発心し、別格本山海岸寺さまのおかげをいただき、兄弟共々、幸せな余生を送っております。

と、申しますのも私は元軍人で、支那事変勃発により赤柴部隊の一員として北支に出動、不幸にして戦闘中銃弾を受けて負傷、内地に引き揚げて一年余の闘病生活を経験しました。

さらに、退院後は肋膜炎を患いましたが時節柄休むこともできず、病気と闘いながら郷里で農業に従事していました。まもなく、二回目の召集を受け、結局、一ヶ月ほどの内地勤務のうちに終戦となり、半病人のような状態で帰郷しました。

 

 帰郷後も病状は悪化し、加えて、弟が道路工事中事故に遭って骨盤を負傷して、これがもとで骨盤カリエスとなり、近くの病院に入院することになりました。弟はここで数ヶ月治療を続けましたが、一向に良くなる気配がありません。

そこで、主治医の先生のお世話で、国立岡山病院に入院し、ここの院長先生、外科医長先生等の手厚い治療を数ヶ月にわたって受けましたが、やはり病状は一向に良くなりません。骨盤局部のウミが止まらないのです。

 

 とうとう、担当の先生方も持て余したかたちになり、医療器具一式を病院で揃えていただいて、気長に自宅療養をすることになり、病院から自宅に引き揚げました。

 

 この時、私はこの弟のこともあり、また私自身の持病の苦しさから、いっそ、お大師さまのお慈悲におすがりしようと思い立ち、お四国巡りを決意しました。

私は、独りで四国八十八ヶ所を巡り始めました。とくに、七十五番善通寺、七十三番出釈迦寺、七十一番弥谷寺、屏風浦海岸寺さまへは足繁くお参りし、いつしかこの寺々の御住職さまなどにも顔を覚えられるようになりました。

 

 あれは、昭和何年頃のことでしたでしょうか。

 ある時、海岸寺の先代の御院主様にお会いして、色々世間話をさせていただくうち、話が私の家族のことや、弟の病気のことに及びました。私の話を聞いた御院主様は気の毒そうなお顔になり(この時、私の方からお願いしたわけではないのですが)、

「お困りだのう、それは・・・」

といわれると、院主様は寺務所の奥へ行かれ、一枚のお守りを持ってきて下さいました。院主様がいわれるには、

「これは、お大師さまの有難いお守りだから、持って帰って病人の枕元に置くように。そうすれば、一ヵ月後には骨盤から出ているウミが止まり、次第に治ってくるはずである」

 

と申されるのです。

 

 私は、半信半疑だったものの、嬉しくて、早速帰っておっしゃる通りにしてやりました。もちろん、病院の先生が指示された治療も妻が続けてはおりました。

 

 果たせるかな、院主様がいわれた一ヶ月がくると、ウミがぴったり止まり、快方の兆しが見えはじめたのです。そして、数ヵ月後にはほとんど全快してしまいました。

 

 長期間寝ていましたので、足の関節が棒のようになってしまって歩行困難でしたが、気長にリハビリテーションを続けた結果一年後には健康な社会人に復帰することができました。四十年後の現在でも弟も私も一家を持ち、子供も健やかに成長して幸せな日々を送っております。

 

 あの時、病める因縁からお四国巡りに導かれ、海岸寺の御院主様を通じてお大師さまのお慈悲をいただいたこの幸せは、言葉では表わしきれません。

 

 私は最近、白内障になって両眼を手術したのですが、手術後は順調に回復に向かい、こうして文字も書けるようになりました。あれもこれもお大師様、仏様の御加護と、ありがたい気持ちでいっぱいです。

 




  馬○蔚様(明治四十三年生)

 

 「日本巡礼記集成 第一集」より 弘法大師空海刊行会 昭和六十年

 
 

 

 人生之流転 朝ニ紅顔夕ニ白骨 最後ハ信仰 現世ニ悔残サズ

 

と書かれた立派な納札が、西国観音霊場や、四国霊場のどこのお寺に参っても目に付きました。

 

 納札ばかりでなく、般若心経も納めてあり、私は四国のあるお寺で、奉納されてあるその心経をご住職にお願いしていただいて帰り、巻末に書かれてある香川県多度津町、吉田栄次郎様あて、自分の写経を添えてお便りを差し上げました。無断で持ち帰ったことをお詫びするためでした。

 

 折り返し、吉田様から立派に書かれた写経が送られてきました。こうして、吉田様との文通が始まり、色々と信仰上のことについてご教示をいただくことになりました。

 

 そして再度、四国遍路に旅立った際、多度津方面のお寺を打つ予定になっていたので、団体行動ゆえ勝手な行動ができないが、できれば一度お会いしてお礼を申し上げたい旨吉田様に手紙を書き、巡拝の途中のどこかでそれを投函しようと思って持ち廻っていました。その当日は巡拝も順調に進み、予定の札所はすべて打ち終わったものの、少し時間があるため明日予定の一ヶ月を今日打って置こうということになり、私達一行はバスで進みました。

 

 行先は金倉寺か道隆寺でしたが、そのいずれにするかは運転手任せにしていました。やがてバスが着いたのは道隆寺。私はバスを降り、ちょうどその道隆寺には吉田様が全国百観音の御砂を頂いて建てられた観音塔があったので、そのことを同行の人に説明しておりました。

 

 すると、傍に立っていた年配の方が、私がその吉田ですよと、いわれるのです。私はハッと驚いて(お目にかかるのはもちろん初めてでしたから)、それまでのお礼を述べ、持ち廻っていた手紙のことをお話ししそれをご本人に直接渡しました。

 吉田様は、明日は他行するので、たまたま、その日に道隆寺に来ておられた由、私も道隆寺は明日の予定だったところ、繰り上げて今日になった事情を説明し、

「ほんとうに奇遇ですね。時間と場所を打ち合わせていても、会えない場合がるのにー」

「これがほんとうの仏縁。お大師さまの引き合わせというのでしょうか」

 

と、思わず、お互いに合掌して喜びあいました。

 

 私は昭和五十九年五月、弘法大師御入定千百五十年大遠忌に高野山に御参りする予定でしたが、海岸寺様、吉田様より中国・西安の「空海記念碑」参拝のお誘いをうけたため、高野山は愚妻に参ってもらうことにして、伊丹空港で吉田様一行と落ち合い、中国への旅に出発しました。

 

 これは万里長城を見学した折りの話です。四、五歳になる女の子を連れた中国人の観光客らしい若夫婦が、何か中国語で私にさかんに話しかけてくるのです。はじめは解りませんでしたが、父親の方が私の袖を引っ張るので、その動作から判断して、女の子と一緒に写真に入ってくれということがわかり、私は笑顔で快く応じました。

 私は女の子と肩々して、奥様も一緒にどうぞと誘って、記念写真を撮りました。御主人は喜んでくれて、私達は固い握手をして別れまいsた。その時、私の周辺には、同行の人三十六人がいました。その中からなぜ私が選ばれたのだろう、と思いながら、ホテルに戻って気が付いたのです。海岸寺様がご厚意で作って下さった迷子札の手拭に、

   中日友好謝徳空海

   香川県屏風浦海岸寺

 

と書いてあったのです。でも、手拭を持っていたのは、私だけではなかったはずなのですが――。いずれにしても、日中親善の使命を果たし得たような気がして、お大師さまの足跡を訪ねての私の中国の旅は、朝晴れのような爽やかな思い出となったのです。

 

 ここにもお大師さまはおわします。



 

愛媛県 K・Tさま

屏風浦海岸寺だより 昭和34年12月発行

 
 

 

 

 

 

 お大師さまの有難い病気封じをして戴いてより御利益を頂き、今は熱も下り、心臓もしづまり、はれも少くなりまして大変元気よくなってきました。この一才の子は、小児科の博士や他の医師からも、見はなされた重い心臓ゼンソクでありました。

 

 もう助からないものと思っておりました。今日では、よく笑い体も自由に動かすようになりました。私等一同、涙をこぼして喜んでおります。



 

北海道 T・Aさま 

屏風浦海岸寺だより 昭和34年12月発行

 

 

 

 

 海岸寺さまへお頼みしておりました長男D・A(昭和四年生)儀、弘法さまの御修法により全く一変し、もとの素直さに帰りました。心から有難く御礼を申し上げます。合掌、本人も奮発心ができ、今回父親の意図通り、六級職試験に合格の上、左記に入りました。



 

大阪市此花区 桜井タキノ様

 

昭和四十四年五月三十一日

まんだら教報 第33号(昭和44年8月15日発行)より


 

 私は昭和四年三月頃より病にかかり、足に水がたまり、陶(現綾歌郡綾南町)の富家病院に入院いたし毎日、水をとっておりましたが、どうしてもなおりませんでした。

 

 子どものときより、母より、屏風浦海岸寺にお詣りすればなおると聞かされておりましたので、足は動けず病床にて一心にお祈りを致しておりました処、ある夜の夢で、お大師さまが法衣をつけ五条のけさをかけ、私の所に現われ給いて「お前の足のいたいのはどちらか」と尋ねられるのです。月夜の晩でしたが、風景がはっきり見えた思いでした。

 

 その日より足がぐっと立つことができたのです。そして、それ限りイタミもとれ、翌日、七十日あまりの病院生活を終えて家に帰り早速、はじめて、お大師さまにお参り致しました処、駅より、人に道を聞くこともなく、お参りができ、夢で見た光景と寸分ちがわぬのに驚いたことでした。

 

 それから三年間、お参り致しましたが、のどもと過ぎれば熱さを忘れるで、いつとなく忘れがちになり、足も心も遠のいておりました。

 

 十数年たちまして、また足が痛みますので、医者に診てもらいましたら、脚気とのことで、また数年間、医者通いを致しました。

 

 その間、私は結婚して、宇野でしばらくおり、それから大阪に移り、もんもんと月日を送っておりましたが、お大師さまにお参りすることを、すっかり気づかずにいたのです。

 

 ふと、そのうちお大師さまのことが思い出され、お参り致しましたところ、たちまち、相当よくなりましたが、充分ではございませんでした。そして二回・三回とお参りしましたが、すっかりよくなり、その後、足の痛むということはありません。

 これもお大師さまの御利益とありがたく、前に忘れていたことを深く謝し、只今では、お大師さまの御利益を忘れたことは一度もありません。きょうも、お礼詣りに参った次第でございます。



 

 

 

 

藤○公枝様(明治三十二年生)

 「日本巡礼記集成 第一集」より 弘法大師空海刊行会 昭和六十年


 

 

 私は、当年、八十八歳になります。私の一家は、数々のおかげをお大師様から頂いておりますので、そのいくつかを書きたいと思います。

 

 末っ子の孫(中学一年生)は、小学校四年生の頃まで、おねしょが続きました。かわいそうですので何とかして治してやりたいと思い、四国の多度津の海岸寺様へお願いしまして、ご住職様からありがたいお守りを送って頂きました。それを、孫の寝台の枕元へ吊り下げまして「今晩からおしっこがでませんように、とお大師様にたのんで寝なさい」と両手を合わさせました。

 

 翌朝、「どうだったの?」と尋ねますと、「おしっこでなかったよ」と嬉しそうに笑顔で申しました。私も親たちも、ああ、何とありがたいことだろうか、と、すぐさま仏様のお燈明を上げ、お線香を焚いてお礼を申し上げたことでした。

 

 また、この子は、よく鼻血を出しました。

 

 その年の十月には、またまた海岸寺様へお願いしてお守り札を頂戴しました。その朝は平素より多量に出ましたので、早くお守りが着かないか、と表に出て郵便屋さんを待っておりました。十一時頃、待ちに待ったお守り札が到着しましたので、その晩、枕元へ貼って寝かせました。

 

 この時も早速、おかげを頂き、以後、一回も鼻血が出なくなり、家内一同、何とふしぎなことだろうか、と喜び合ったことでございます。

 昭和五十九年十月四日には、私が大へんな失敗をいたしました。と申しますのは、お昼の十一時半頃に大学生の孫が出かけると申しますので、油鍋に火を入れ、昼食の準備にかかりました。すると孫は、

 

 「僕、もう食べずに出かけるから・・・」と申します。

 

 それなら昼の支度は中止して、夕食の時にでも・・・と思い、油鍋に火をつけているのを忘れて、隣室で新聞を読んでおりました。

 

 ところが、出かけたはずの孫が、引き返して戻ってきたのです。家に入った孫は、「おばあさん!」と叫んで、台所へとびこみ、消火器で、燃え上がっていた油鍋の火を消してくれました。

 

 ボケていないつもりの私も、やはりボケているのでしょうか。火を消すことをすっかり忘れていたのです。でも、孫のおかげで、天井の換気扇を焼いただけで大事に至らずにすみました。

 

 もし、あの時、孫があと戻りしなかったら、どんな大事になっていただろうか、と思うと恐ろしさにゾッといたします。それにしても、あの時、孫がなぜあと戻りする気になったのかふしぎでなりません。「何となく気になって・・・」と孫は申しますが、ああ、お大師様が引き返させて下さったのだと、私は心からの感謝でいっぱいでございました。「ああ、ありがたい、おたすけだなあ」としばらく泣いたことでした。

 

 勤めに出ている嫁が帰宅しまして、「おばあさんには、いつもいつもお大師様がそばについておられるんやなあ」と申しましたが、ほんとにその通りだと思いました。

 

 毎日毎日、大難は小難に、小難は無難に、とお大師様にお願いをしているのが、こんなに大きなおかげとなって、ほんとうにありがたいことでございます。

 




 

島○輝雄様(大正六年生)

 「日本巡礼記集成 第二集」より 弘法大師空海刊行会 昭和六十二年

 

 

 

 現代の発達した医学によって、我々はどのくらい恩恵を受けているだろうか、それは計り知れないものがあります。

 

 医者よ、薬よと、手軽に高水準の医療を受けられる便利さ、果報さ、医学に感謝し、尚いっそうの進歩を願うものであります。

 

 その私が図らずも不思議な霊験をうけ、それを信じていますので次に述べる事にします。

 

 昭和六十一年、年頭の頃よりなんとなく下腹部右側のあたりがうずく様な、それでいて痛みも無く、重苦しく、腹全体にわたり皮が引っ張ったように張り、何とも知れない不快な気分になってきました。

 

 若い頃、盲腸附近が不快となり医師の指示で冷やした経験もあり、数年前同様なことで専門胃腸科にて診察の結果移動性盲腸とかで、薬と食事に気をつける事で治り、近年まで殆ど気にしていない状態が続いていました。

 

 しかし今回は、以前にも無かった特別気になる症状なので不安となり、公立の病院で診察を受けました。レントゲン撮影の結果、正面、側面の写真にかなりの大きさのポリープ(腫瘤)が写っていました。

 

 医師は即刻入院、手術が必要との事で、驚くままに二月二十五日入院いたしました。

 

 入院してベッドに横たわって考えてみると、色々なさねばならない仕事が身を責めたてるように次々と思い浮かんでくる、じっとして居れない心残りのある焦燥感の日々。絶食後手術室で肛門より空気を入れ、腸を膨らませ、内視鏡を入れ切り取るとのことでした。が、途中内視鏡の先端が腸内の患部に届かぬうちに挿入が出来なくなり、その不快と痛さに耐えていた私の血圧が急に下がり、意識がもうろうとして来たので、直ちに手術は中止となりました。

 

 体調が回復してから今一度写真を撮り、後日開腹手術をするとのことで病室へ帰されました。

 

 私は手術の苦しさから、もう恐ろしい手術はご免だと、せつない気持ちでした。折しも入院前日、讃岐のあるお寺様より思ってもいなかったご祈祷のお便りが届きました。不安で、心細くなっていた時であり、おすがりする気持ちで早速病状を記入してご祈祷のお札をお願い致しておりました、そのお札が手術中止の翌日送ってこられました。

 

 中には葉書大の和紙にお手判と呼ばれる、小判型の朱印が押されてあり、これで患部を御真言を称えつつ撫でると治るとありました。

 

 早速この御手判を腹部に当てて、御真言と、南無大師遍照金剛を称えつつ「どうぞどうぞ良くして下さい、今一度レントゲン写真を撮るといっているので、何とぞ写真にポリープが写らないよう」と。

 

 自分程度の浅い信仰心でお蔭があるだろうかと、思い乍らも一心にお祈り致しました。同室の人々にこの行為が知られるのが気恥ずかしくて、知れないように、隠す様にそっと動作したものです。

 

 お祈りを始めて一週間がたちました。その間体調も次第に良くなって腹部の様子も楽になってきました。一週間目のレントゲン写真を撮り、二〜三日して主治医の処へ呼ばれました。

 

 家族と共に恐るおそる伺うと、前回の写真と今回の写真二通りを並べて先生の言われることには、前回この位置にあったポリープは今回の写真ではキレイに無くなっているので、手術の必要も無く、体調も回復しているので早速退院して宜しいといわれました。

 

 一瞬「お大師様のお蔭を受けた」、なんと有難いことか、写真を見ながら私の想っていた通りになった。私は嬉しさの余り言葉もでない有様でした。

 

 退院して平常心に戻って、落ち着いてから考えてみました。医師から写真を見せられた時に、どうしてポリープが消えたのか、医学的な説明を求めればよかったのになあ・・・・・と悔やまれましたが、何しろその時は退院出来る喜びが大きく、そういう事は想ってもみませんでした。フイルムに写っていたポリープが、次の写真では完全に消えている現実、これは現代でもなお顕著なお大師様の霊験ではないでしょうか。巷間言われます「この世には人智を超えた霊がある」ことを、私は信じるようになりました。

 

 退院した翌日、ボロボロになったお手判は指示通り焼き、一つまみにもみたない灰にして、備後の母なる川、芦田川へ流しました。そして翌日、家内と共に海を渡って讃岐のお寺様へお礼参りを致しました。

 

 私は今日まで、お四国廻りを続行中、坂東、秩父、小豆島、中国観音、備後西国、神島巡り等数回に亘りお参りを続けております。家内も、お参りには協力的でありましたが、今回の出来事に深い感銘を受けたようです。

 繰り返しますが、私程度の浅い信仰心で、良くもお大師様が御蔭を下さったものとありがたく思い、現代でも起きるお大師様の霊験を信じて深い感謝の日々を送っております。

 





平成22年3月 愛知県名古屋市 川○裕子様

 

 

 

 

 御免下さい。先日は色々と御面倒や御迷惑をお掛けして済みませんでした。又弘法大師御手判を送っていただき、本当にありがとうございました。

 

 此こ一週間近く心臓が痛く、チクチクと夜十二時位になると針をさす事があったので、早速二十八日の朝、御手判を胸の中に入れた所、吐き気がして何も口にしておりませんので生唾が出、すっきりしました。

 

 悪い物が出たのだと思って居りますが、びっくりで、本当に嬉しく思いました。

 

 私の気持ちですが、切手、ビール券、米券を送らせていただきましたので、使って頂ければと思います。

 

 今後とも宜しくお願いいたします。

 

 ありがとうございました。かしこ

 

住職さま  川○より

 二十七日に届きましたお手判大切にいたします。





 

 

平成23年1月 兵庫県加古郡 奥○あやみ様



 

 

 

 新年明けましておめでとうございます。

 

 私が屏風浦海岸寺様に御縁を頂いたのは、たしかH21年秋別格参りのバスツアーにてお参りし、「かわら」を志納させて頂き、私と長男が結婚の事で悩んで落ちこんでおりました時期でもあり、「覚なるようにしかならぬ心配すな」の色紙を選び、頂いて帰りました。

 

 12月に入り、海岸寺様より封書にて星祭り祈祷申込み書、悪縁悪霊絶ち護摩講申込み書が届きました。申込み書を読み、心当たりがあり、私も五年位前より頭が重く、身体のあちらこちらが悪くなり、疲れやすく、根気がなく、二〜三年病院通いをしておりましたので、早速、星祭り、悪縁絶ち護摩講に家族3人申し込みしました。すると、身体の重さだるさ等とれすっきりしました。

だが、脳のどうきだけは取れなかったので、専門病院へ行き診察して頂いたところ、肺高血圧症という難病だと解り治療が始まりました。この病気がかくれていて身体の調子が悪かったようです。今は投薬治療でおさえております。

 

 自分では身体の調子は大分良くなり、日常生活において困ることはなくなり、このままお不動様のおかげを頂きながら過ごして行けると信じております。

 

 長男の方も31才を過ぎた頃より独立して家族を持ってほしい、良い縁にめぐり会って結婚してほしいと、私の友人、知人、又は占いの人に運をみてもらったりなど、あらゆるつてを頼りに気をもみながら、見合いも何度となく致しましたが実ることはありませんでした。

 

 海岸寺様にお参りさせて頂き、「覚なるようにしかならぬ心配すな」の色紙を選ばせて頂いた時、不思議と気持ちが救われました。

 

 そして悪縁絶ち護摩講を申し込みさせて頂き、良縁祈願を致しました。そして、長男の居る東京に開けて一月二十八日に行き、部屋のかべの所にがくに入れて心をこめて目の高さの所に飾りました。その時、悪縁絶ちのお札も一緒に同じ所に飾り、長男に朝会社に行く時、手を合わせるように頼みました。

 

 そして二月二十八日、三月二十八日と二度新幹線に乗り、初めてお山の悪縁悪霊絶ち不動明王様にお参りさせて頂きました。その時、心をこめて長男の良縁成就祈願をさせて頂き、帰りに本殿の海岸寺様の拝殿にお参りさせて頂き、長男の名前で祈願幟を奉納させて頂き帰宅しました。

 

 4月に私の病気が判り、お参りすることが出来ず、私の病気の悪縁を絶って頂きたく、お供を不動明王様に志納させて頂きH22年度を無事終えることが出来ました。

 

 しかし同時に長男の縁組が進行しておりました。H22年7月29日に入籍(出会ったのはH22年1月末頃)、12月24日に無事挙式致しました。本当に海岸寺様、お不動明王様と御縁を持つことが出来ましたことに感謝の日々です。

 

 今後もお不動様の御加護を頂きながら、日々精進してまいります。

 

 ほんとうにありがとうございました。心より御礼申し上げます。

 

 今月一月二十八日、悪縁断ち不動護摩の日が参ります。

 

 長男の良縁成就の御礼をさせて頂きます。よろしくお願い致します。志納金○○○○円を同封致しますので、名入り幟を二本、良縁成就お礼として奉納、奥○禎○37才卯年でお願い申し上げます。

 

 海岸寺様にご縁が出来たことに感謝し、今年も不動明王様に手を合わせて参ります。

 ありがとうございます。心より御礼を申し上げます。

 




平成23年3月 大阪府堺市 山○芳子様

 

 

 

 

屏風浦海岸寺様

 

 山○芳子でございます。

 

 毎日、苦しい暗い日々をすごしておりました所、?頭?目?前額?右の肩こり?後の頭の方がよく腫れて、痛くて困っておりました。

 

(病気封じ祈祷を申し込んでより)頭、目が一日一日おどろくほどに、よくなりまして、人生が明るく変わり、毎日がたのしく過ごさせて頂いております。

 

 悪い所を取り払って頂きまして、本当にうれしく、ありがたく、感謝しております。感謝感謝の毎日でござ

海岸寺
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