屏風浦海岸寺の公式ホームページ◇別格霊場第十八番|四国不動第三十一番|

 

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絵はがき(昭和初期)

絵はがき(昭和初期)
 
   
                    1.(左上) 大日本真言根本霊場 大師堂再建中
                    2.(右上) 日東初縁場       本坊全景
                    3.(左下)               本堂
                    4.(右下) 御胞衣塚(右)  熊手八幡宮(左)

 

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十四橋 (そよつばし)

 弘田川の下流、旧多度津街道に架橋された石橋で、十四日橋とも呼ばれていました。その謂われは、弘法大師が幼い頃、海岸寺本坊にあった別館で勉学中、毎月十四日にこの橋を渡って母公に会い、熊手八幡宮へもお参りされていた、という伝承にあります。

 本坊裏手の海岸は白砂青松の景勝で知られ、「天の小橋立」とも呼ばれていました。金毘羅詣りが盛んだった江戸時代には、多度津の観光地としても取り上げられるほどでした。

 その当時、交通の盛んな河川でも橋が架かることは珍しく、渡し舟が一般的でした。そのため、この地の名勝とともに十四橋はその名を知られたのです。

 同村の儒者、三谷景?による橋銘は、現在ではほとんど見えにくくなっていますが、「経之営之。爰為石杠。石杠維貞。不騫不崩。萬徳斯年。永福大邦」とあり、末永く往来する人々のお役に立てるようにとの願いが込められています。

参考:多度津町誌 資料篇、金毘羅参詣名所図会


上生寺 (じょうしょうじ)

 真言宗醍醐派に属し、十一面観音を本尊としています。多度津結衆寺院のいくつかと同じように、元慶(884)八年、理源大師聖宝の開基とされています。

 同寺には、艫取(ともとり)観音が安置されており、伝承によれば、弘法大師が渡唐の際、風難に遭って一心に祈念したところ、船の艫(船尾)の方に観音さまが現れ、難を逃れたことから、帰国の後に尊像を刻んで安置したそうです。


 仏母院三角寺 (ぶつもいんさんかくじ)

 弘法大師の母公、玉依御前のお屋敷があった場所とされ、「御住(みすみ)屋敷」と呼ばれていました。ミスミは別の当て字がなされ三角寺と称し、大日如来を本尊として祀っています。そばの竹やぶには、弘法大師の御胞衣(えな=胎児を包む膜や胎盤のこと)を埋めたとされる御胞衣塚(おえなづか)があります。

 
  熊手八幡宮 (くまではちまんぐう)

 伝えるところでは、神功皇后が三韓征伐の帰途、風波の難に遭ったためこの地に上陸しました。出発に際して、旗や熊手(金属製で古来の武器)を村人に与え、渡辺一族にこれを奉祀させたということです。のち、欽明天皇の時代、各地に八幡宮が祀られると、同村でも熊手をご神体として「熊手八幡宮」と称しました。

 弘法大師がこの地にご誕生されたことで、同社を産土神として崇め、毎月14日に参拝されていました。弘仁十年、大師は熊手八幡の社殿を造営し、八体の神像と釈迦一体を刻んで安鎮した、と伝えられています。

 同社には、もう一つお大師さまとゆかりのあるお話が伝わっています。それは紀州藩が撰した「紀伊名所図会」に詳しく記されていますが、こういうものです。

 お大師さまが高野山の奥之院で入定されると、熊手八幡宮の神は生前の約束を果たすため、ご神体の熊手を白龍に変えて、一路高野山を目指して飛ばしました。途中、伊都郡山崎村の松の梢(こずえ)に引っかかったご神器は、昼夜を分かたず発光していました。3人の村人がおそるおそる近づいて正体を見、そして事の次第を高野山に伝えたところ、これを山内の各寺院で順番に祀ることになったのです。

 そういうわけでこれを「巡寺八幡宮」と呼んでいます。古来は六十箇院が、江戸時代には三十箇院ほどが講を組んでいたようですが、現在では十八箇院が2ヶ月ごとに持ち回りで祀っており、巡寺八幡講、もしくは有志八幡講と呼ばれています。どんな行事なのか興味あるところですが、一般の方には公開されていないそうです。

 参考:高野山霊宝館HP「有志八幡講と鎌八幡宮」、道隆寺温故記(香川叢書史料篇一所収)、地志(当寺所蔵)、紀伊名所図会


西白方瓦谷遺跡 (にししらかたかわらだにいせき)

 奥之院の南方にある丘陵を下ったところで、県道を敷設する工事が行なわれていましたが、ここで弥生時代中期(2200年前)、後期(1900年前)と古墳時代中期(1600年前)、後期(1400年前)の竪穴式住居跡の遺構が発見されました。標高3〜20mの畑地帯でした。

遺構は4mか5mの方形で、11棟以上あることが確認されています。特徴としては、

1.縄文時代中期後半(5500年前)に属す縄文土器が発掘されたこと(白方地区では初出土)、
2.弥生時代の石器が大量に出土したこと、
3.古墳時代のイイダコ(飯蛸)壺は県内最古であること、
4.奈良(1300年前)、鎌倉(800年前)までの異なる時代の遺構が同地域で発掘されたこと、

などがあげられます。

 平成19(2007)年4月から翌年1月までの調査で明らかになったことの一つは、海岸寺のそばを流れる弘田川に沿う形で、古代人の生活空間が形成されており、かなり古くから人々がこの地に定住していたということです。

参考:多度津文化財保護協会報第36号、
         いにしえの讃岐NO.54(香川県埋蔵文化センター)


仙遊ヶ原地蔵堂 (せんゆうがはらじぞうどう)

 善通寺市の仙遊町にあります。伝承では、弘法大師ご幼稚のとき遊んでいた場所であり、そこから名付けられたようです。

 都からの勅使がここを通りかかった時、他の子供たちと戯れていたお大師さまを見て、馬から下り礼拝したといわれのある場所です。幼いお大師さまの周囲を、四天王が白傘蓋(びゃくさんがい)をかかげて守護していたそうです。

海岸寺の伝承から、もうひとつ付け加えておきたいことがあります。

 聖人伝にはしばしば見られることですが、お大師さまもご誕生の時、天地が感応して怪異なことが多々あったようです。おそらく異様に輝く星が見えたとか、地鳴りがしたとか、季節でない花が咲いたとか、そういうことでしょう。

 村人たちはこれを不吉な前兆だと解釈して、ご誕生間もないお大師さまのうわさをし、玉依御前はしばらくの間、村を離れなくてはなりませんでした。その場所が仙遊町だったようです。

ここでひとつ疑問が浮かびます。

 Q.玉依御前がお大師さまを連れて移居した場所が、なぜ父である佐伯直田公(さえきのあたえたきみ)の館ではなかったのでしょうか?

 A.それは、夫婦が同居する風習が奈良、平安のこの時代にはなかったからです。当時の氏族社会では、自分が生まれ育った氏族を生涯離れることはなく、夫婦は別々に生業を営んでいました。夫婦はお互いが通い合うことで、夫婦でありえたのです。

   男女共に氏族の家長として、跡継ぎを必要としていました。結婚しても、女性が氏姓を変えることはなかったのです。夫婦が同居する風習がありませんでしたので、佐伯氏の領地内に仮住まいするとしても、田公とは別邸に暮らしたというわけです。

 そしてもう一つは、母系社会の風習がまだ残っていたこの時代、家族の中では年長者の女性が一番高い地位にありました。現在でも儒教を信奉する中国大陸や朝鮮半島の人々にこの風習が見られます。

 日本でも古代には女性の地位は高く、従って男性が女性のもとへ通うのが普通であり、女性が男性のもとへ通うことは一般的にはありえないことでした。

 お大師さまが四天王に守護されているのを、都の勅使が見かけたというエピソードは、実は海岸寺のすぐ裏手にある海岸の道であったとする伝承があります。駒止め岩といって、現在はしめなわが掛かっていますが、波による侵食が激しくもう50年と持たないのではないでしょうか。

参考:四国八十八札所遍路記(大法輪閣/西端さかえ著)、四国遍路たより(海岸寺発行/安達忠一著)、招婿婚の研究、母系制の研究(講談社/高群逸枝著)、結びのかたち(熱田神宮宮庁)


駒止め岩 (こまどめいわ)

 海岸寺の裏手、白方の浜を西の方角へ歩いてゆきますと、ごつごつした岩場があります。その岩場の曲がり角あたりに、注連縄で飾られた大きめのとがった岩があり、これを当地では「駒止め岩」と呼んでいます。

 ここはお大師さまがご幼稚の頃、このあたりで遊んでいて、都の勅使が通りかかり、お大師さまを見て礼拝したとのいわれのある場所なのです。

 現在は、風波にさらされて面影もなく、削られるばかりですが、1200年の昔にはここに海沿いの道があり、勅使はここを通って行かれたと伝えられています。

 わが国の古代には巡検使といって、諸国の民の安否を視察する役人が、都から派遣されていました。その勅使が馬に乗ってここを通り過ぎようとした時、馬がどうしたわけか立ち止まってしまったのです。

 勅使は不思議に思い、あたりを見回してみますと、子どもたちが戯れているのが見えました。そのなかに幼き日のお大師さまがおられました。勅使はその子供がただものではないことを見てとったのです。

馬を下り、かの子供の前に礼して曰く、
「公は凡人にあらず、四天王白傘蓋を取りて左右に囲繞せり、定めて知んぬ佛菩薩の化身なり」

隣里の人たちはこの話を伝え聞いて大いに驚き、お大師さまを神童と称したそうです。

 さて、このエピソードに基づいて、海岸寺の奥之院大師堂には、四天王像が本尊弘法大師誕生佛の左右に配されています。

参考:弘法大師行状記(中村風祥堂)、四国民報(昭和五年壹月五日)


曼荼羅寺 (まんだらじ)

弘法大師の父方の佐伯家一族の氏寺として、推古帝の四年に建立されたと伝えられる古寺です。

 お大師さまが唐よりご帰朝ののち、大同二年、金胎両部のマンダラを安置して供養、ご本尊大日如来を勧請して、宝祚無窮、万民除災、ことには母君玉依御前の佛果菩提を弔うため、唐の青龍寺を模して造営された、と伝えられています。

 この伝承によりますと、大同二年には母君玉依御前はすでにこの世の人ではなかったことになります。しかし、高野山のそばにある慈尊院にはこれと矛盾する伝承があることはよく知られています。

 お大師さまが高野山に登られてから、玉依御前は親族の者を連れてお大師さまに会いに行かれました。しかし、高野山は結界の地、いくら実の母とはいえ俗人である以上、立ち入ることは許されません。

 そこでお大師さまはみずから山を下って会いに行かれました。月に九度も山を下りられたことから、九度山と名付けられたそうです。実際に九度ではなく、たびたびという意味でしょう。

 玉依御前が亡くなられたのは、承和2(835)年2月5日とされています。そうすると、曼荼羅寺の伝承はどうなるのでしょうか。

 おそらく考えられることは、お大師さまが菩提を弔ったというその女性は、玉依御前その人ではなく、乳母もしくは玉依御前の母君であったかもしれません。

 また、父佐伯直田公の別の妻、つまりお大師さまから見て同父異母にあたる方だったのかもしれません。あるいは佐伯家の氏寺ですから、佐伯姓の女性の誰かであった可能性もあります。

 大化の改新以来、子は父方の戸籍に付くよう奨励されていますが、母系相続制の名残りをいまだ残しており、子は母方の実家で育てられていたのです。それでいて名乗る氏姓は父方ですので、非常に複雑な家族構成が成り立つことになります。

 一夫一妻制ではもちろんありませんでしたので、父に別の妻があったとしても不思議ではありません。お大師さまの兄弟姉妹すべて同父同母と考えることのほうが無理があります。

佐伯家側から見た子供たちの数と、阿刀家玉依御前から見た子供の数が合わないとしても、不思議はないのです。

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